問に答えて
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瑣末《さまつ》な
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)日常|瑣末《さまつ》な
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)書かない[#「ない」に傍点]と云われている
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この三四年の間、小説を書かないのは何故であるか。そういう問いが記者によって出された。
私の今の状態から云えば、この問いの中で書かない[#「ない」に傍点]と云われているところは既に書かなかった[#「なかった」に傍点]という、文法の上では過去の形でされる方がふさわしいし、又全く小説を書かなかったというわけでもないが、質問そのものは面白く思った。
或る作家が、書く、書かないという現象をそれぞれについて見ると、一口で片づけきらぬ内容がある。盛に書くが、作家としての真の発展という視点に立って見るとそれは衰退への道を辿っている場合もあり、雑誌の上に目立つ作品は書かぬが、生活的にはその期間に却ってその作家にとって大切な成長がされているという場合もある。私は、自分の場合は、後の部に属す性質をもったものであったと考えている。
私が、旧作家同盟に参加した頃、或る種の人達は、片岡鉄兵がしたと同じように私も早速ブルジョア・インテリゲンツィア作家として持っていた文学上の腕をそのまま活用して、いろいろな作品を書いて行くことと予想したらしく考えられる。そのとおりに実際は進まず、二年も三年も私が小説らしい小説を書かなかった結果、当時の周囲の事情との関係もあり、反動的な見方で私についてのこの現象を説明する人があった。それらの人々は私の階級的移行が作家として愚かな行為であるという見解を示したのであった。今までいた場所にいて柔順しく身の廻りのことでも書いていればよいものをなまじっか新しい運動に入ったから勝手が違って書けないという風に理解した人もあったらしいし、また或る一部には、恰度小林多喜二があのように短かい生涯を終ったについて、まるで当時の作家同盟が彼をあのように痛憤すべき最終に立ち到らせたと云ったと同じく、私も作家同盟で下らぬ仕事にこき使われているから書けないと考えた人もあったらしい。
作家同盟の活動に就いて云えば、それが広い階級運動の持っている様々な歴史的条件によって、ある時代に部分的な指導上の誤りがあったし、作家がものを書くために不便な条件もあったことは事実である。けれども私は今日自分がプロレタリヤ作家として落ちついた一つの確信をもってものを書けるような時機に到達している立場から、これまでの数年間を省ると、あながちそれらの人達の考えるような消極的な意味だけが過去の活動から汲取られるとは思わない。また現実的に作家の本質的な発展の問題に触れてこれを見れば、決して消極的な意味を歴史上に持っていたのでもなかったのである。
大体、作家とその実際生活との関係は非常に微妙で、興味尽ぬものがあると思う。例えば私なら私という一人の婦人作家が、最近の三四年間における日本の複雑きわまる急速な状勢の移り変りにつれて実際生活の上で経験した事柄というものは、その内容をみると時間では計ることの出来ない程多く深いものを与えている。
それならば、どうして刻々にその経験を片端から小説に纏めて行かなかったのかという疑問が起るのであるが、私はここにリアリズムというものが経験主義でもなし、日常|瑣末《さまつ》な写実主義でもないという証明があると思う。
ある作家が、ただ実際はこうであったという自分なり人なりの経験にだけ頼って、その範囲内で一つの事件をみて小説を書いた場合、読者は必ずしもその作品から実際事件が当事者達に与えたような感銘を受取り得るとは限らない。屡々反対の結果が起っている。例えば、組合の活動をした人は過去の運動に於ける文化問題の理解の不足ということもあるが、よくプロレタリヤ作家の小説は真面目ではあるけれどつまらない、私達の生活の方がもっと面白い、私達はもっと面白いことを知ってもいる、というようなことがある。
ブルジョア作家のある種の老大家や所謂有名な文筆家の中にも、年をとるにつれて小説がつまらなくなって来た、読めるような小説はこの頃一つもないではないか、子供欺しだ、といって、それに較べると、とシェクスピアやユーゴーの偉大さを賞める人もよくある。今の小説はつまらないということが一つの識見であるかのように繰返されることがある。作家はそういう人々の弾力を失った感受性を憐むと同時に、作家側として学びとるべき何ものかがその一見下らぬ言葉の中に籠っていることを知らなければならないのではないだろうか。
小説は、ただあった通りに書いたというだけではいわばそこには題材はあるが肝心の読者
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