もう少し立つと、きっとあの人指をしゃぶり出すに違いないわ。まるで赤ちゃんみたいにしゃぶるんだもの、可笑しいわ、私もう一遍行って見て来ようかしら」
 などと云いながら、まるで何か嬉しいことに出会ったように、ハアハア、ハアハア云って笑った。
「何故叱られたの」
「何故なんだか私知りゃあしないわ、だけどさっき高山さんが云ってたわ」
「なんて」
「いや、私。貴女が怒るから」
「怒りゃあしないわ」
「きっと」
「ええきっと」
「ぢゃあないしょよ、
あのね、高山さんや山田さんがね、あれなんですって。今朝貴女面積のこと先生に訊いたでしょう。それをね先生は随分怒ってるんだって、だけど貴女はうっかり叱れないから、何を云っても黙ってる飛田さんに当ってるんだろうって。
 だから何でもありゃあしないんだわ、ただの八つ当りなのよ。だけど真個に黙っててね。そいじゃあないと私怒られちゃうから」
 云うだけ云って、笑うだけ笑うと、三崎さんはさっさと彼方へ馳けて行ってしまった。
 けれども彼女は笑うどころではなかった。大変なことを聞いたと思った。
 真個にそんなことがあるだろうか。
 先生の八つあたり……。非常に不合理な、滑稽《こっけい》に近い矛盾を感じた。
 けれども、そのくらいの事は考えられるだけ先生の様子は不機嫌でもありまた正当でもなかった。
 自分のために――たとい自分は僅かの悪意も、不正な心情をも持っていなかったにしろ――自分よりもっと弱い、みじめな飛田さんが叱られていると聞いては、彼女の心は安らかでなかった。
 まして、いくら不当な叱責を受けても、迫害を蒙っても、それに対して一言の抗弁も出来なければ、防禦も出来ない飛田さんを、放って散々いやな思いをさせて置きながら、自分だけノコンとしていることは出来ない。皆からたださえ馬鹿にされ、独ぼっちで味方のない飛田さんに、その八つ当りと思われるものが飛んで行ったと云うことのうちに、彼女の心を燃え立たせた或る卑劣さがあった。
 若し飛田さんをどうかしてあげなければ、自分は真個に卑怯な、恥知らずに成り下ってしまうと思った彼女は、弾《はじ》かれたように立ちあがるなり、赤くなって二階へ馳けのぼった。そして、とっつけの教室をあけると、三崎さんの云った通り椅子に腰をかけている先生の前に、飛田さんが気抜けのような顔をして立っているのが目に入った。
「先生!
 私が悪かったら、どうぞ私を叱って下さいまし、そして飛田さんを勘弁してあげて下さいませ」
 先生の顔を見た瞬間、体中の血が一どきにドクーンと音を立てて心臓に突かかって来、自分で自分の声がよく聞えないほどの興奮を感じた彼女は、飛び付くように先生の直ぐ前へ立ちながら、あらいざらいの勇気と力をこめて云った。
 先生は暫く、真赤になって激情から我知らず震えている彼女を見守っていたが、やがて彼女には思いがけなかった微笑を浮べながら優しい声で、
「伊那田さん貴女何か叱られるような事をしたんですか」
と云った。
 何と返事をしたらいいのか分らなかった彼女が、青い頬骨の突出た顔に漲《みなぎ》っている、何だか訳の分らないほど複雑な表情のうちから、言葉を見出そうとしているうちに、先生はすぐ後をつづけて、
「飛田さんには学校のことでお話していたんです。ちっとも叱られてなんかいたんじゃあ、ありません。ねえ、飛田さん」
と、飛田さんを見た。
「ね、そうですね飛田さん」
 飛田さんは、唇の上に涎《よだれ》を一粒光らせながら、肯定も否定も表わさない微笑を漂わせて、何が起っても私は知りませんと云うように立っている。
「だから心配しないでもいいのですよ、大丈夫だから。決して叱っていたんじゃあないんだから……けれども、一体誰が貴女にそんな事を教えたんです。
 おっしゃいな」
「…………」
「とにかくね、貴女が悪いことをすれば、きっと私は貴女を叱ります。そしてまた、若し飛田さんが悪いことをすれば、私はどうしても飛田さんを叱らなければなりません。貴女と飛田さんとは、まるで別々に一人ずつの人じゃあありませんか」
 先生が、落付いた自信のある口調で明言したのを聞くと、彼女は思わずハッとした。
 こう言明するからには、心からこう思っているに違いない先生に対して、失礼なことを考えていた相すまなさと、軽弾みだった自分の恥かしさとが、一時に強い感動となって心を撃ったのである。
 今朝の先生と、現在の先生との間に、彼女はどうしようと思うほどの差異を認めた。
 どっちが真個の、「この」先生なのか。
 けれども、誰でもがそうである通り、彼女も、自分が教えを受けている先生は、下等で卑劣だと思うよりは、真個に尊ぶべき人格を持っている人として確信される方が、どのくらい嬉しくて、心が安らかだか分らなかった。
 学問はたといそんなに偉く
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