とうとう、先生の振向いてくださるのを待ちかねて、椅子をガタガタ云わせて立ちあがりながら、
「先生!」
と声をかけた。
丁度その時、後向きのままで白墨《はくぼく》の先を減らしながら、何か別の考えに気を取られていたらしい先生は、少し周章《あわ》てて彼女の方を向いた。
「先生、
何故、縦と横とをかけると面積が出るんでございましょう。そして、何故厚みが無いんでございますか」
先生は、自分の耳を疑がうように少し体を前へ傾けながら、不純な表情を浮べて
「え、何ですか」
ときき返した。
自分の質問が通じなかったと思った彼女は、もう一度同じ言葉を繰返して、立ったまま先生の返事を期待した。が、先生はいつまで立っても口を利かない。
余り先生が黙っているので、それまでは彼女の質問を可笑しがって、肩をぶつけ合ったり眼配ばせしたりして笑を殺していた者達も、不安な予感に襲われて、教室中は人っ子一人いないような静けさになってしまった。それでも、まだ先生の口は結ばれたままである。何かいやなことがあったのだろう。
それは確かである。けれども、彼女は自分の言葉のうちに露ほども失礼な文句や心持の無かったこともまた、確信していた。
で、彼女はもう一度、前よりもっと丁寧に訊ねた。
「面積には厚みが無いと申しますけれども、誰かが地面を買うとき、幾坪と云って面積で買っても、若し井戸や何か掘るのに、地面の底まで穴をあけても、その泥を勝手に使っても、売った人は何とも云わないと思います。
そうすれば、その人の買った面積には、厚みがついているのでは無いでございましょうか」
暫く口を噤《つぐ》んでいた先生は、やがて明かに感情を害した語調で、
「縦と横とをかけると面積が出るのです。そして、面積に厚みは無いものと、昔から定まっています」
と断言すると直ぐ、まだ立ったままの彼女に、凍《し》み透るような一瞥を投げたまま、黒板の応用問題に就ての説明を始めた。
この時始めて、彼女は自分のこれほど一生懸命な質問が、下等な意地悪からの揚足取りとして受けられていたことを知ったとともに、先生が自分に対して与うべき解決を持っていないことを知ったのである。
自分の疑問は勿論満されなかった。
けれども、そんな下らない事を楽しみにしたり、喜んだりするほど、こじっちゃ、卑しい人間にも見られるのかと思ったら、口惜しいような悲しいような涙が、ひとりでに滲み出して来て、何を云う気も無くなってしまった。
始終病気に許り見込まれて、苦労がいかにも多そうに瘠せ切っている先生を一人ぼっち、困らせたり間誤付かせることに成功したところで、それが何だろう。
それほど自分は下劣な魂に生れついてはいない。情けなさと憤懣《ふんまん》が、喉仏のところで揉み合って、彼女はむせ返りそうな心持がした。
大人は始終自分達に、気の毒な人には親切にしろ、悪い心で物を考えてはいけないと、教えてくれる。
それは真個にその通りである。
そうするのは正しいことであると思っているから、自分はちっとも曲った心などは持つまいとし、また実際持たずに正直にすれば、今のように却って大人の方が、間違った、悪い心持で判断するばかりか、当然のことのように辛い心持にさせて平気である。
何故知らないことは、そのまま正直に知らないとして、この次のときまでに解らせようとしないのか。
正直と云うことが、ただ自分等が大人に叱られるときだけにほか通用しないものなのか。
彼女は、明かに一種の侮蔑を感じた。
大人の心情の価値の減退を感じた。
けれども、ただ感じるだけである。いかほど強く感じても、彼女の乏しい言葉では表現されなかったし、対者が大人だと云うこと――赤坊のときから、無条件で服従すべく馴らされている大人であり、また永く世の中に生きてい、たくさんの言葉を知り、自分等がどんなに熱心になって掛って行こうとも、都合のいいようにはぐらかすことを知っている大人であると云うことが――黙々のうちに一種の強制的な規制を彼女の感情に加えた。
彼女自身にとっては尊い名誉心を傷《そこな》われた不平と、一種の公憤に心を乱された彼女は、陰気な顔をして無言のまま、席に復すほかなかったのである。
自分さえ正しければ、何が来たって逃げまいと決心しながらも、若し母が今ここにいてさえくれたらと思うと、急に悲しくなって、危く涙が零《こぼ》れそうになった。
ところが、同じ日の昼の休時間のことである。
廊下の隅で、日向ぼっこをしていた彼女のところへ、当番だった三崎さんと云う子が来て、
「伊那田さん、飛田さんがどうかして先生に叱られてるのよ」
と云いながら、直ぐ傍に並んで腰をかけた。少し頭の足りない飛田さんが、口をあけてニコニコしながら、何か怒っている先生の顔を見ていたとか、
「
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