なくても、いつも心は正しい先生だと云う方が、彼女にとってはどのくらい有難かったか分らない。
 そしてまた実際、貴女が悪いことをすれば、と云われた言葉には、真に卑怯なことなどは、微塵《みじん》も許さない心の強い人らしい力と、落付きと、誰憚らぬ威厳とがあったのである。
 彼女は、まるで落してもう諦らめをつけていた宝石を、偶然再び見出せた時の通りの尊さと嬉しさとを感じた。
 それが一度見失われた為に、再び現われたときの価値は、以前の倍も倍も有難いものに思われる。
 そんなにも有難く思われる為に、一寸でも手離して塵まびれにされていた時が、堪らなく惜しく、すまなかったと感じられる。
 失われていた時と、今、確かにこの手に持ち、この目で見ている時との心持の差が互に対照して、相当以上に強調された感動を与えるのである。
 彼女における場合も、全くその通りで、相すまなさも、嬉しさも、二つながら過度なものではあった。
 けれども、他人を叱らせては悪いと思うと、思う下から二階へ馳け上らずにはいられなかった子供の心は、一つ自分の尊敬に価するものに出会うと、その真偽も考えず驀進《まっしぐら》に、ただそれだけを見つめて突進しずにはいられなかったのである。
 今、自分がこれほどの尊敬を払わずにはいられない同じ人は、さっきいかほど侮蔑すべき態度であったかと云うことや、その間に必然|横《よこた》わっているべき矛盾などは、もう彼女の感動にいささかの影響を与える力も持たなかった。それどころか、何より大切だった面積の厚みの有無に対する疑問が、解かれないまま残されていると云うことさえ、この瞬間においては、全然彼女の脳裡から消え去っていたのである。単純で、一本気ながら熱烈な道徳的良心が、子供らしい真剣さをもって、あらゆる事物に向って作用する時代にある、感情的な彼女は、自分の判断で悪と認めたことには、渾身《こんしん》の勇気と反抗心をもって、猛烈に対抗し得た。
 けれども、一度善であり、正当であると認めた事に対しては、その結局は自分の極力拒むべき、悪のうちに流れ込むように水口を付けられてあろうとも、殆ど盲目的に誘われてしまうのである。
 彼女は、どうしても平常のように、頭を真直に保って、ちゃんと先生の眼を見ていることが出来なかった。
 そして、
「さあもう安心して彼方へ行らっしゃい。貴女が心配だったら、飛田さんと一緒に行ったらいいでしょう」
と云われたとき、彼女の感激はとうとうその頂上まで突きのぼった。
「先生!
 御免下さい」
 彼女は声をあげて泣き出してしまった。



底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第一巻」河出書房
   1951(昭和26)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年1月2日公開
青空文庫作成ファイル:
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