無題(二)
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)必[#「必」に「(ママ)」の注記]して
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 世間知らずで母親のわきの下からチラリチラリと限りなく広く又深いものの一部分をのぞいて赤くなって嬉しがったりおびえたりして居る私の様なものが、これから云う様な事を切り出すのはあんまり荷のかちすぎた又云おうと思う全部は必[#「必」に「(ママ)」の注記]してつくせまいとは思いながら、まだ若い何でも自分の考えて居る事を信じて居易い時の私の心は、それを思ってひかえて居る事が出来ない。思ったまんま間違ったものは間違ったなりに書きつづけて見る。
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 私の様なまだ知った様で世の中を知らないものは、自分の愛し又高いところへ置いて尊がって居る何でもをひきずりおろしてきままにされると云う事が、まことに自分の誤ちを知った時よりもつらい。
 とうてい目を開いて又泣かないでは居られないほどに感じる。
 丁度恋人の陰口をきいて逃げかくれる人の気持を持たなければならない。
 何にかぎらず芸術と云うものを私は一通りでなく愛し又尊んで居る。
 美術も音楽も――
 まして文学は私が心中しかねないほど思って居るものである。
 多少の迷信さえ持ってこの文学を――広く云えば芸術を愛して居る私は、この頃身ぶるうほどの不愉快さに涙をこぼさなければならないほどいやなみっともない言葉を、尊い芸術のために聞かなければならない時がある。
 文壇にかなり知られて居る或る文学者は、
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「文学をするなんて云うのも仕事が割合にやさしいと云う事からでより以上にたやすくて仕事があるんならその方に行く」
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と云ったのを聞いた事がある。
 こんな言葉は人間の中にたった一人の人が云ったことではないけれ共私は眉をひそめてつばをはきかけてやりたい様にさえ思う。何と云う人間らしくない事だろう!
 どうしてそんないくじなしなんだろう!
 まっかになってげんこをにぎるつぎには、「どうしてまあそんなに私の愛して居る芸術を馬鹿にしてどろっ手でかき廻して呉れるんだい?」
 涙をこぼして足元を見ながら云う沈ずんだ暗い気持になって来る。
 もとより生活の苦しみなんかをチョンびりも知らない私が生活の波にさからっておぼれまいおぼれまいとして居る人達の心はそんなにはっきりとは分らない。
 でも幾分かは分る。知っても居る。
 生活の困難な世の中ではなるたけらくで人のうけもいい仕事をしたいのは人間として又あんまり体をつかう事のきらいな今の人間としては必[#「必」に「(ママ)」の注記]して無理ではあるまいと思われる。
 けれ共芸術にだけはそう云う思いを持って親しんではもらいたくないとどんな時にでも思って居る。
 只その呼名をきいただけで顔が熱くなるほど真面目に私が愛する芸術をよごさずに置きたいと思う。
 ことに文学の様なものはどれだけ人間の生活に大きな影響をおよぼすかははかり知る事が出来ず又それがあんまり見えすいたら私達はおびえなければならないかもしれないけれども文学が良い影響のおよぼされた時を想像すれば私は一寸首をふって微笑する事が出来る。呪われた影が文学によって人生の上にひろがりおしかぶさった時の事を思えば人の見えない四方の見えないものの中に入ってでもしまいたいほど――又より以上に恐れて苦しまなければならない。
 なぐさみ半分にする人ならば、
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「もっとやさしいぞうさない仕事があったらそれにうつろう」
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と云っても私は怒りはしないかもしれない。
 それが長い間専門にそのことにたずさわって居る人の口からこの言葉をきいた時の私の心はほんとうにみじめな情ない悲しさにみたされた。
「芸術」とカッコをして置いて奉ってばかり居たらそれについての研究も改革も出来るものではない。
 大なる悟の前にはキット迷と疑いがあると同じに、芸術と云うものを或る一種の尊いものにするのには一度は各々が一つずつ芸術を抱えてそれを疑いの目を持ってでも迷ってでも研究して悪くはないと思う。
 けれ共研究した最後は一つの尊い人間の特別な清い感情によってのみ感かすことの出来る輝かしいものとして現われなければなるまいと思う。
 死ぬまで芸術の研究者であっても好い。
 けれども芸術に対してオッチョコチョイであってはならない。
 自分の心臓からとばしり出る血を絵の具にして尊い芸術を――不朽の芸術を完成して最後の一筆を加え終ると同時死んだ画家の気持をどの芸術家にでも持ってもらいたいと思う。
 その画家が若かったか老いて居たかは私は知らないけれ共だれでもが生と死との境の分らないまでにどんづまりに
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