未開な風景
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瓦斯《ガス》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)紅毬|薔薇《ばら》
[[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)エ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァーシャープ
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○
みのえは、板の間に坐っていた。真暗な板の間であった。
みのえの前の瓦斯《ガス》コンロだけが、暗闇の中で勢よく青い広い焔をあげている。その薄明りでみのえは自分の鼻の先と手を見ることが出来る。
自分の鼻の先、それからすべっこい熱い激しい瓦斯の焔。一心に見つめつつみのえは全身の注意であっちの話声をきいていた。あっちの部屋の襖《ふすま》をしめて、母親と油井が火鉢を挾んでいた。油井は、黒い髪を分け、和服の下に真白いソフトカラアのついた襯衣《シャツ》を着た男だ。彼は鼻にかかる甲高い声を出した。その夜は、低い声で、彼の心を蹴とばして他人のものになった女のことを母娘に話してきかせた。油井が最後の訣《わか》れにその女と小田原へ行ったというところへ来たとき、お清は、
「ああ、みのちゃん、お前ちょっとこれ沸しといで」
と瀬戸引の薬罐《やかん》をぎゅっとみのえの手に持たせた。
「お願いだから、あっちへ聞えるように話してよ、ね、油井さん」
みのえは、その続きを聴かずにはいられない。暗闇の中へ座っている彼女の神経は、だから瓦斯の焔そっくり新鮮で色が奇麗で、燃えたつようなのだ。
「じゃ、それっきりお嫁に行っちゃったんですか」
「そうですとも」
「……でも余りだわねえ、そいじゃ」
「私は淋しい人間だというわけでしょう?」
「…………」
あっちで二人が沈黙したら、その空気が徐《おもむ》ろに狭い家じゅうに拡った。みのえは、いかにも夜の更けたことを感じ、あっちの灯の明るい、油井の白いソフトカラアーを浮立たせている部屋の沈黙を甘美に思った。
するのは瓦斯の焔が噴《ふ》き出す音ばかりだ。ピラピラする透明な焔色を見守り、みのえは変に夢中な気持になって湯の沸くのを待った。彼女には、この夜ふけの、恋物語の後の沈黙が異常に作用するのであった。じかに板の間にいて寒さも感じない。
薬罐の底がクトンとずるように鳴った。
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