シューン。……
 みのえは、溺れ込んだように集注して息をつめ、たぎり始めた湯の音をきいた。蓋を、元禄袖の袖口できると、俄《にわか》に湯玉のはじける音がはっきりした。
 もう少し……もう少し……もう少し。あたりは暗いし、待ち遠しいし、つきつめた、気の遠くなるような思いで今溢れる際までたぎり立たせ、みのえは瓦斯を消し、ちょっと手をひっこませて元禄の袖口の綿入れにもうっと温く伝って来るほど熱した薬罐を持って立ち上った。
 襖をあける。
 眩《まぶ》しい。光の針束がザクリと瞳孔をさし、頭痛がした。
 みのえは、
「ああくたびれちゃった!」
 薬罐を置いて、油井の横へ、ぺたんと坐った。
「――御苦労さま」
 お清は、生真面目な顔と様子で番茶を注ぎ出した。その真面目さが、みのえを擽《くすぐ》った。みのえは、肩揚げのある矢絣の羽織の肩に自分の顎をのせるようにして油井を見ながら、眼と唇とで笑った。油井は、ちらりとみのえの笑いを照りかえしたが、素早く口元をたてなおし、睨むような真似をした。みのえは、少し体を動かして母親の方を向いた。
 番茶を飲み終ると、
「さあ」
 油井は立ち上って、銘仙の着物の膝をはたくようにした。
「もう帰らなくちゃ」
「そうですか――まあ、もうこんな時間かしら」
 油井は玄関へ出て、外套や襟巻をつけた。お清が外套をきせかけてやる。みのえは、柱によりかかり、油井の一挙一動を見守った。彼が、真白い襟巻をきっちり頸につけて巻いた時、みのえは小さい声で、
「似合うのね、それ」
と感に入ったように囁《ささや》いた。
「左様なら、またいらっしゃい。――お父さんにどうぞよろしく」
 みのえは、母親の肩につかまって、やはりじっと油井が格子を出るのを見送ったまま、左様ならとも何とも云わなかった。
 元の八畳へ戻ると、急に茶器が散乱しているのばかり目立った。
「あーあ、すっかりおそくなっちゃった!」
 さも迷惑らしくお清は片づけものをよせ集めながら欠伸《あくび》混りで呟いた。が、みのえはそれが本ものでないのを知り、母親を侮蔑した。
 飽くまで真面目でお清は娘に云いつけた。
「さ、早く表の締りしてきとくれ」
 父であり夫である杉本剛一は当直の冬の夜であった。みのえは十六だ。

             ○

 みのえに三つの妹があった。その児をみのえが八時過ると寝かしつけなければ
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