又、家
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)苟且《かりそめ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
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 H町に近いのは、なかなか都合のよいこともある。仮令《たと》えば、何か急に客用のものを借りたい場合、病気で薬を頼みたい場合、決して調法でないことはない。が又、一方では、可成困ることがある。
 自分達が、久しぶりの休日か何かで、悠くり二人限りの時を楽しもうとして居る時、不意に小林さん(書生)が来て、奥様が一寸直ぐ来て呉れ、と仰云います、等と強制される時、又、仕事のある時、小さい妹や女中が、のんきにふざけに来る場合。後者のときは、まあ自分一人の迷惑ですむ。が、前のような場合は、自分として、二重に不快と遠慮とを感じずには居られない。もう一つには、Aが、女子学習院に専任になることにもなったので、正月(一九二二年)から、自分は、又新たな住居を探すことになった。
 片町からでは、単に往復するだけで、三時間余もかかる。雨の日、混雑の時、それ丈徒に神経を浪費することは決して彼の為によくない。余り精力家でないAが、不機嫌な蒼い顔をして、一日の働から戻って来るのを見るのは、良心的に堪らない。今度は、もう動かないつもりで、――大家が追い立てる迄は居る決心で――落付き場処を青山の中で見出そうと云うのである。
 H町に、引越したいと云う意志を洩したのは、もう久しい以前からのことである。
「それもよかろうよ。遠いものね」
 然し、いよいよその積りで家を見付けにかかると、少くとも母上は、ひどく淋しそうに見えた。不自由で困るだろう、元のようにそう小林さんをやるわけにも行かないから。私の方は一向構わないがね、などと云われる。
 彼女の心持は両端とも感じられた。けれども、それかと云って、此那ひどい処で我慢し、余分な疲労をさせては居られない。
 Aは、学校の門衛の巡査に心当りを注意して貰うことを頼んだ。自分は毎朝、食後、時事新報の広告欄を見る。時には、「嫁入度」などと云う活字の下を、驚と、好奇心と相半ばした心持で読みなどし乍ら、「貸家、赤坂見附近」と云うような文字でも見つかると、心をあつめて、間数や家賃を読むのである。
 始め、片町を見つける頃よりは、余程、貸家は出たらしい。一つは、あの頃の払底につけ込んで、郊外に少しでも土地を持って居る者は、ひどい苦面をしてでも、まるで小屋のような急造家屋を、矢鱈に並べた。当座こそは、いやでも他にないのだから仕方なく入った人も多くあったのだろう。然し、次第に調節がつき、物価が下落して来るにつれて、左様云う人々は、段々市内に戻って来たらしい。不便な処へ、盗難は保証されない。その上、可成、田舎らしくない金をとる家は、しめる、曲るで病気にもなりかねない。住む人に見すてられたような住宅は、目黒、上大崎辺に随分在ったらしい。広告などに出るようなのは、大抵地名を見ただけでも興味を持てない其近辺が多いのである。
 又暫く気を揉まなくてはなるまいとは、二人の覚悟したことであった。容易に、都合よい家などのあるものではない。
 どうせ、長く居る積りで越すなら、
 第一、此那俥も入らない処ではない場処、
 第二、此那下等な小供の騒しくない場所。
 そして、電車が、うるさくない程度で近くありたいと云うのが、我々の共通な希望であったのである。
 前の章に書き落したが、此辺の子供のひどいと云っては、話にならない。
 庭の崖下には、棟割長屋が、詰って居る。其処に各々の巣を持つ小供等が、午後三四時頃、学校が引けると、天気さえよければ、うちの板塀の外の一隅で遊び始める。下へ降りる段々の踊場とでも云うべき一坪程の平らな場所から、ずっと、自分等の家の屋根、彼方此方の二階、曙町の方の西洋館の窓々や森等の見晴らせるのが、子供等にはさぞ嬉しいのだろう。
 特に、ああ云う狭い、三方は遮られて、此方から丈の展望があると云うような処を子供が好く心持は、自分にも経験がある。仲間と、左様云う処にかたまり、計画を立て、わーっと声をあげて馳け出す時の心持には、大人の知らない、胸の轟きがあるものだ。
 けれども。――疲れた時、コンセントレートしたい時、節穴さえあるかもしれない板一枚の彼方で、此、手ばなしの大騒ぎをやられてはかなわない。其もよかろう。然し、門口の植木を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]られたり、御用ききに廻る中僧などと、十二三の女の子が、露骨な性的痴談を、声高にやって居るのを、いや応なく聴かされるのは、困る。――
 或土曜日。天気のよい日であった。Aが出がけに、一時頃、
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