るところがある。
 訳者は熱のこもった態度で仕事している。その面の無気力が反映しているというのではない。それとは別のものである。シチュードリンのこの作品を訳した翻訳者としての見識や積極性は十分評価されるべきであって、なおそのこととは別の印象として訳文にもう一段とたかい精神の響を求める欲求はのこされるのである。
「ゴロヴリョフ家の人々」はトーマス・マンの「ブッテンブローク家の人々」のように系譜的作品であるが、ここにあらわれているシチェードリンの作家的力量は、地主社会の崩壊の姿をその背後によこたわる歴史にまでしっかりその指先をふれて掴み出し、生々しく描き出し、驚くばかりの感銘を与える。シチェードリンが、十九世紀中葉の帝政ロシアの暗い空気に抗して、地方貴族の生活の腐敗をあますところなく描き出すことで、より健全な人間生活への翹望を示していることは、訳者の序文によって明らかだし、作品そのものが何よりも熱く語っている。ロシア文化の歴史に消すことの出来ない生涯をもつチェルヌイシェフスキーなどがシチェードリンの価値をよく知っていたのに、「その前夜」だの「父と子」だのを書いたツルゲーネフが、この作家の奥深い現実への感覚とその文学を理解しなかったのも面白い。半生をパリで暮らしたツルゲーネフには当時のロシアの前進する若い力の表面の動きは外からつかめても、社会の底に湛えられてその支えとなっていたシチェードリンのような作家の価値は見えなかったのだろう。
「ゴロヴリョフ家の人々」は一八七二年にかかれ、トルストイの「アンナ・カレーニナ」の出た前年日本では明治五年、福沢諭吉が「かたわ娘」という物語でおはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]をつけたり眉を剃ったりする徳川時代からの女の因習を諷刺した年である。それとこれと、国民が所有する文学発達の層の比較ということも、深く考えられる。

 今日の日本の社会は、おのずから過去七十余年の明治以来の推移に思いをひそめさせ、文学にも系譜的な小説があらわれて来ている。真の系譜がどのように社会的な立体的な把握をされなければならないかということについて「ゴロヴリョフ家の人々」は教える多くのものをもっている。
 訳者の序の引用文に、この作家がその創作を政治的な問題に意識的に服従させ而も芸術的形象の完成を妨げなかったことをかかれているが、今日私たちの置かれている環境の現実はこう
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