、云わば一番その作者らしくその作品らしい精髄はぬきすてたあとの、至極常識的な語感でもわかる部分だけ買わされ、よまされているということになるのである。
ブルージェの「死」、「家」が流行したらしいけれども、あの訳について、日本の文章としてだけよんでも、何か腑に落ちないものがあるを感じた人はなかっただろうか。概して今日の読者は、作品をそんな風に感じてよんだりしなくなっていて、題だの筋だので買うとでも云うのだろうか。
文化の粗末さについては、作家もいくらかの責任を感じなければならないと思った。せめて文学書の翻訳に対して、作家は作家として、もう少し責任ある関心をもち研究や発言もして行かなければならないのだと思う。さもないと、読者は、フランスの世界史的意味の退敗をさえ、ブルージェが夙《つと》に「家」で警告していたとおり、家の観念の崩壊がフランスの今日をあらしめたというような、牽強も甚だしい広告にもつられなければならない。いい加減の訳をよまされた上、景品として世界的現実の劇画まで与えられることは、私たちとして辞退したく思うのである。
体位の向上がひろく云われている以上、精神の体位を向上させることも、現代の任務の一つな筈である。
そんなことを考えていた折から河出書房版、新世界文学全集第十一巻、シチェードリンの「ゴロヴリョフ家の人々」が配本されて来て、非常に興味をひかれ、今三分の二ほどよみ進んでいる。
この小説の訳者は、少くとも原文に忠実であろうとするあらゆる努力を惜んでいない。意味に忠実であるばかりでなく、シチェードリンのむずかしい文章の脈うちの特徴や、作品人物の性格的な物言いの癖までも日本文のなかに捕えようと試みていて、そのために、一応「わが友」と書いた字のよこへ、お前、お前さん、君、とふりがなをつけて読ますことも敢てしている。こういうこまかな表現にこそ、外国語のニュアンスの移植のむずかしさがひそめられているということを感じさせる。(しかし、こういう工合に二重に重ねる字のつかいかたについては、疑問がのこされているが)
それらの努力の窺《うかが》える真面目な訳であるのだけれど、読んでゆくうちに、訳文全体の調子が、一種の低さを感じさせるのは、何故だろう。何となし、訳文の精神とでもいうべきものが、もう少し高められていたら、どんなに完璧な芸術のよろこびが感じられただろうと思え
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