部なのだが、両親は、生涯本棚らしい本棚というものを持たなかった。その代り、どこの隅にもちょいちょい本を置くところがあって、どこにでも坐ったところには、手にとってみる本があるという暮しぶりだった。
 私の小さかった時には、父のテーブルの置いてある長四畳の片側が二間ぶっとおしで上下にわかれた棚になっていた。その上の段が即ち本棚で、文芸倶楽部、新小説、太陽などが、何年分もどっさり雑然とカーテンもなくつみ重ねられていた。
 五つばかりの娘は手当りばったりにそれを下して来て、字は読めないから絵ばかりを一心にくって眺めた。
『新小説』か何かの扉に、一つどう見てもそこに立っているのが何だか分らない妙な絵があった。そこはひろい池で、赤い夕陽がさしている。向うの黒い森も池の水の面も、そこに浮んでいる一つのボートも、気味わるく赤い斜光に照らされて凝っとしている中に、何かが立っている。青白いような顔半分がこっちに見えるのだけれど、そのほかのところは朦朧として、胸のところにかーっと燃え立つような色のもり上ったものがたぐまっている。五つの娘の瞳にそれはいくらかゴリラの立ち上ったみたいに映るのであった。その絵ばか
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