社会的・政治的発言としてよまれた。しかし、彼女の短歌の世界は、現実のそういう面に接近させられなかった。与謝野晶子の歌として、世人が期待するになれた象徴と自然鑑賞のうちに止まりとおしたことは注目されなければならない。様々の理由がそこにあったろう。晶子が、自身の創作上の方法論をもたなかったこと、それも、彼女の発展を困難にしたことはたしかである。
 一九〇四年、晶子が「旅順港包囲軍の中に在る弟を歎きて」つくった新体詩「君死にたまうこと勿れ」は、「ああ弟よ、君を泣く」という第一句からはじまって深い歎きのうちに「君死に給うこと勿れ」と結んでいる。「親は刃《やいば》をにぎらせて、人を殺せと教えしや、人を殺して死ねよとて、二十四までも育てしや。」「君死に給うことなかれ。すめらみことは戦に、おおみずからは出でまさね。かたみに人の血を流し、獣のみちに死ねよとは。」「十月もそわでわかれたる少女心をおもいみよ。」

 この詩は『明星』に発表された当時、愛国詩人大町桂月一派から激しい攻撃をうけた。その後、この詩は晶子の作品集からけずられて、四十数年を経た。「すめらみことは」いでまさぬ太平洋戦争の敗北によって、
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