ての風俗文学の本質、中間小説の本質につながるものとなった。
窪川稲子の作品も次第に身辺的な男女問題をテーマとするようになった。この時期に岡本かの子が「鶴は病みき」によって出発し、一九三九年急逝するまで、「母子叙情」「老妓抄」「河明り」その他、多くの作品をおくり出すようになった。
内閣に情報局がおかれ、日独防共協定にイタリーが加えられ、国民精神総動員運動がおこされたころ、新しく生まれた婦人作家に川上喜久子がある。彼女の「滅亡の門」は、当時の文学の実体の萎縮に反比例して、作家たちが主観的にとなえていた「芸術的意欲の逞しさ」を反映している創作態度であった。
これより少し前に短篇によって登場した小山いと子は、この頃「熱風」や「オイル・シェール」というような作品を生むようになっていた。小山いと子は従来の婦人作家としては社会現象に対して強い興味と追求心をもった作家で、この二つの作品にしろ、みもしらない外国を背景として日本技師のダム工事にからむ事件や、人造石油製造の技術の発展とそれにからむ人事などをあつかっている。小山いと子のその積極性も戦争協力の「生産文学」の範囲から自由になることはできなかった。
一九三八年から九年にかけて満州と中国に侵略した日本の軍事力は、ますますあれ狂って張鼓峰事件をおこし、ノモンハン事件を挑発した。文学者数十名が「武漢作戦」に従軍し、林芙美子は当時有名だった「北岸部隊」をかいた。国内では国家総動員法が全面的に発動され、国外ではヒットラーのナチス軍がポーランドに侵入しヨーロッパを火と死のうちにつきこんだ。
このような年に婦人作家の活動が現代文学史のいつの時期よりも盛であったと記録されるのは、どういう理由からであったろう。窪川稲子「素足の娘」、真杉静枝の「小魚の心」「ひなどり」(短篇集)、大谷藤子「須崎屋」、中里恒子「乗合馬車」、壺井栄「暦」、そのほか矢田津世子「神楽坂」、美川きよ、森三千代、円地文子など当時の婦人作家はその人々の文学的閲歴にとって無視することのできない活動をした。一九三九年度の芥川賞、新潮賞などが婦人作家に与えられた。ジャーナリズムはこの年を「婦人作家の擡頭」という風によんだ。
この現象は、しかしながら、決して婦人作家に未来の発展を約束する意味での擡頭ではなかった。なぜならばこの年の活動を通して一定のポスター・バリューをもつこと
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