た。そして林房雄、亀井勝一郎らと当時の思想検事関係者の間に「文芸懇話会」が生れた。
 しかしフランスとスペインには、ファシズムに抗して人民戦線が生まれ、この年の八月十七日から九日一日までの間、モスクワでは「五十二の民族、五十二の言語、五十二の文学」を一堂にあつめた第一回全ソヴェト同盟作家大会がひらかれた。フランスからはロマン・ロラン、アンドレ・ジイド、アンリ・バルビュス、アンドレ・マルロオなどの他に世界革命的作家同盟のフランス支部の責任者であるポール・クーチュリエの五人が招待された。この大会は知識人と労働者が真に団結してファシズムと闘い、文化の自由を守らなければならないことを世界にしらした。これが動機となって一九三五年六月三日パリで「文化擁護のための国際作家大会」がもたれた。ファシズムに反対するすべての作家が結集した。当時日本ではかろうじて進歩的な世界文化の動きを紹介していた新村猛は『世界文化』十月号にこの意味深い大会の報告を伝えた。小松清もこの文化擁護の大会の議事録を翻訳して、日本にもファシズム反対のなにかの行動を可能にしようとした。
 プロレタリア文学運動が破壊されたことは、プロレタリア作家たちが組織を失い、分散させられ、その困難の中で稲子の「くれない」、中野重治「村の家」、宮本百合子「乳房」などが生まれたというばかりではなかった。小林秀雄の評論活動をはじめとして、プロレタリア文学運動に反撥することで、それぞれの派の存在を支えていた「純文学」の分野にも、はげしい混乱と沈滞をおこした。三木清によってシェストフの「不安の文学」が語られ、やがて「不安の文学」にあきたらない小松清、舟橋聖一などの人々がフランスの反ファシズム運動を変形させた「行動主義の文学」を提唱しはじめた。
 だが、一方では和辻哲郎が学識を傾けて日本の特殊性を主張するために「風土」を書き、保田与重郎、亀井勝一郎らが日本浪漫派によって神話時代、奈良朝、藤原時代の日本古代文化と民族の精華とを誇示し、横光利一は小林秀雄とともに純粋小説論をとなえはじめていた。この純粋小説論は、限界をしめしている私小説から社会的な文学への展開といわれたが、本質は作品の世界に再現される社会的現実に対して、作家の人間的・社会的主体性をぬきさった創作の方法であった。作家の自我は敗走した。この理論は、時をへだててあらわれた私小説否定とし
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