晩年にある青年を愛して批評がおこったとき、「偉い男がおしゃく[#「おしゃく」に傍点]を可愛がるように、女が男を可愛がるのが何故悪いだろう」という意味をいった。
俊子とやす子と、二人の言葉は、あまり女に自由のない日本の社会の悲劇を語っている。同時に、資本主義社会の矛盾の中で「恋愛の自由」が畸型的なものにならざるをえない悲劇をも語っている。
一葉以来、晶子、らいてう、俊子と、これらの婦人たちは、なんと勇敢にとび立とうとしてきただろう。そして、なんと打ち勝ちがたい力で、その翼をおられてきただろう。
夏目漱石は、婦人に対して辛辣な文学者であった。「吾輩は猫である」の中に女の度しがたい非条理性が戯画的にとりあげられて以来、「明暗」にいたるまで、彼のリアリスティックな作品に登場する現実的な女性は、男にとって不可解な「我」を内心にひそめて、何かというと小細工をもてあそぶ存在としてみられている。ところが、漱石は「虞美人草」「琴のそら音」などのロマンティックな作品では、その時代の現実には見出せなかっただろうと思われるように自意識の強い、教養があることさえ、そのひとをいやみにしているような若い女性を仮想している。もしそれらの女主人公を現実のひとがわが身の上に模したとすれば、それは、らいてうでもあろうかと思われる人物である。
漱石はイギリス文学――特にジョージ・メレディスなどの影響によって、男と女の葛藤の核心に自意識を発見しながら、もう一歩をすすめて日本の家庭生活において自我がどうして不自然なしこり[#「しこり」に傍点]となり、非条理な発現をするようになってきているかという分析にまですすまなかった。漱石の生活と文学には、森鴎外の場合とちがった率直さで、封建的なものと、近代的なものとがからまりあってあらわれている。彼はイギリスの文学の中に婦人作家のジョージ・エリオットが評価されていることを認めることはできた。けれども田村俊子などが活動しはじめたについて意見を求められたときの彼の答えは、時代的でありまた性格的であった。漱石は、教育や職業上の技能がだんだん男女ひとしいものになってくるから、女らしいとか女らしくないとかいうことで小説の価値が決定されるものではないという正当な見解を語っている。しかし、それにつづけて次のようにも語っている。「作者と作品とをわけて、どうもこういうはなはだしいこ
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