ぼつかない、一人のみこみであったことが見出される。私の意志に[#「私の意志に」に傍点]よって男を愛して[#「愛して」に傍点]ゆくにしても、そのような男を選ぶ俊子の選択のよりどころはどこにおかれたのだろう。俊子は作中の女主人公に云わせている。「自分の紅総のように乱れる時々の感情をその上にも綾してくれるなつかしい男の心」にこそひかれると。「あなたなどと一緒になって、つまらなく自分の価値を世間からおとしめられるよりは、独身で、一本立ちで、可愛がるものは蔭で可愛がって、表面は一人で働いている方が、どんなに理想だかしれやしません」「女の心を脆く惹きつけることを知っていなくちゃ、女に養わせることはできませんよ。あれも男の技術ですもの」と。
 このような角度で男女が結ばれてゆくなかに、どんな新しいヒューマニティとモラルがあるというのだろう。経済能力が女にあるというだけで、男と女の立場が逆さになっただけのことだとは思われなかったのだろうか。田村俊子は、そういう省察によって、自分の文学をわずらわされることがなかったようにみえる。それがどのように濃厚な雰囲気をもっていようとも、社会生活から遮断された愛欲の世界の単調さが、生活と文学とを消耗させないではおかなかった。彼女の自我は、自我を鞭撻してマンネリズムとなった境地から追いたて、新しい道に前進させてゆくだけの骨格をもっていなかった。俊子の文学は近松秋江の「舞鶴心中」幹彦の祇園ものにまじって情話「小さん金五郎」などを書くようになった。当時ジャーナリズムには赤木桁平が「遊蕩文学」となづけて排撃した情痴の文学が流行していた。俊子の人及び作家としての精神の中には情痴の女作者として腐りきるにはたえないものがあった。彼女は一九一八年頃愛人を追ってアメリカへ去った。
 俊子が、その未熟であった社会感覚から、あやまって女の自我の発揮であると強調した男に対する積極性は、ほとんど全く同じくりかえしで、のちに三宅やす子の上にあらわれた。三宅恒方博士の死後彼女にとってせまくるしかった家庭生活から解放されたやす子は、花圃を長老とする三宅家の監視を反撥して「未亡人論」を書いた。良人に死なれた婦人にむけられてきた封建的な偏見に対して、率直に闘いを宣言した。この一冊によってやす子は啓蒙的な婦人評論家、作家として成功した。四十歳をいくらもすぎないで生涯を終ったやす子が、
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