作家たちの多くは、そういう危険に我とわが身、わが芸術を曝すだけの社会感覚をもたず芸術至上の境地にこもって、身辺のことを熱心に描きつづけているために、変に政治化した作品、非文学的な素材主義にあきたりず文学の香気というものを作品に求める心が、おのずから婦人作家の作品への関心をよびさました。
 そのような現実のいきさつを文化の問題として大局から見たとき、はたして婦人の文化能力の高揚と楽観していい切ることが可能であろうか。私たちはやはり率直に、転換期として今日現れている文化一般の混乱、低下を認めなければならず、いわば婦人作家の擡頭ということも今日までの範囲と質とでは、やはり干潮とともにあらわされた岩の姿として自覚する歴史的な目を求められていると思う。
 この一二年の間に、女の生活の内容は実に変化して、若い婦人で重工業の分野に活動しはじめた数はおびただしいものである。これまでは年期奉公に出されていたような若い農村の娘たちが、どんどん旋盤をつかい、電気穿孔機をつかって精密機械の製作に従うようになった。それらの機械の精巧さ、小学校を出たばかりの女の子でも使えるまで高度に調整され、単純化された分業の過程というものは、少くとも日本の文明のある水準を語るものでなければならないと思う。そのことに疑点を挾むものはおそらく一人もないであろう。
 ところで、文化の問題として見て、そういう機械について働く技術を覚えた農村数十万の娘たちの日常生活の実質が彼女たちの文化の高まりという意味からどのくらい高められ、広められているかということになると、それへの答えは決してやさしい事であるまいと思う。なぜなら、一定の機械を操る技術を覚えたということだけでは、それはまだ彼女たちの身についた文化としての内容をなすにはいたっていないものであるから。文明の進歩した技術に使われる馴れた小さい手となっただけでなく、それが文化の実質となるためには、若い彼女たちがはっきりと自分たちの従っている生産の意義などを自覚し、その技術が自分たちの生活を社会的にどのような方向に動かしているかということについて、ある判断とそれに準じた態度を持って、生活の感情がその技術の近代性にふさわしい近代労働者の感覚にまで成長させられて来なければならない。そのとき初めて、彼女たちは新しい技術とともによりひろい文化創造の可能を身につけたというよろこびに
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