た。この時期の進歩的な婦人の読者たちが書物にむかう気持は実になまなましい欲望をこめたものであった。彼女たちは、一冊の本を読むことで、そこからあることを知識として知ろうとしたばかりでなく、それを自身の生きる実力の一つとして摂取してゆこうとする意慾をもっていた。わかったばかりでなく、我が身にそえてそれを噛みしめ、判断し、影響として深くうけいれて、必然を目ざまされたら生活がそのことによって流れをかえることをおそれなかった。その意味で、この時代の一部の婦人の読者は、実に我ままでなかったと思う。意識しない伝統のおもりや歪みが、自分のなかでどんなに判断の現実の比重を狂わせているかをさえ心づかぬままの素朴な純真さで、彼女たちの善意が発露のみちを求めたのであった。
 読書というものに向うそういう生活的な態度は、ちかごろ新しくふえた若い婦人の読者の間に、なにか形を変えつながれ貫いているだろうか。見かたによればやぼったく、しんから求めるもののある何かの感情で本が手にとられているのだろうか。
 女学生たちが、文学書なんかの棚の前で示すこの頃の対商品、対消費物めいた態度については、ほとんどすべての人が憂いと嫌悪とをもって語っている。文学を生み出してゆくものの側からこういう状態をみると、文学作品にたいする感情が婦人雑誌なみのところでひろがってきている点が問題であると思える。婦人の読者という側からみれば、今日は、きのう、おとといの女と自分たちの現実の低さはけっして劣るともまさっていないのに、青春の感覚のなかでそれに抗議する敏感さがうしなわれていて、むしろ恣意的な傾向があらわれて来ていることが考えられるのではなかろうか。ちょうど着物を買うときのように、彼女たちは本を買っている。読書も一つの生活の要素ではあるが、あれ面白かった? これどう? いい? という時の感情は、映画なんかについてしゃべるのと大したちがいを持っていないような気分があたり前のようになって来ていると思う。一冊の本の内へはいっていって、その世界と自分の生活とを密接にからみ合わせてみるという気魄のある読みかたが失われているように思える。
 現代は一方に一種の精神主義がひろがっていて声高くものをいっているのであるが、その片面にこういう精神活動の低調さや、にぶりが目立つということは、日本の明日への文化のためにやすんじてよいことなのだろうか
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