婦人たちがますます本を買って読みながら、自分たちの生きている歴史の意義や女の生活のおくれを自覚してゆく活溌能動の心情を失う方向へばかり導かれているとしたら、購買力として婦人の数の増大することはとりもなおさず、文学なら文学作品の商品化に拍車をかける作用をするばかりのようなことになる。今日、ともかく婦人の間に読書の風がひろまりつつあるとすれば、その習慣はもっとも懇切な努力でさらにより意味のある本の選択や、いくらか系統だった読書への趣向の方向へ育てまもられてゆかなければならないだろう。読書にたいする日本の婦人の生育の過程はいまその一般の数の増大の第二の時期をへつつあるとも見られる。この土台の上に、婦人としての読書の質が高められなければならない。
 アメリカなどでは、がいして女の人の方がよけい本を読むということが周知の事実となっている。男は忙しく働き金をもうけている。女は時間と金とがあって、男より読書している。そのために、婦人が社会に働きかけてゆく力は非常に根づよい。そういわれている。けれども、こまかく考えてみれば、時間と金とが男よりも多いといわれているアメリカの読書する婦人たちのうちのはたして何割が、社会人として自力でそれらの本を買い、本をよむことでその自主的な生活力を鍛錬し慰安を見出しつつ生きているのだろうか。アメリカのような国で、勤労して生活している若い娘たちがどのように読書しているか興味がある。ドライサアの「アメリカの悲劇」の中には、読書することで生活になにかがおこったというような男も女も一人も描れていないことが思い出される。
 チェホフにしろ、ストリンドベリーにしろ、女の読者というものにたいしてそれぞれ独特な表現で興味ふかく疳癖を示しているが、このことにこれらの作家たちの芸術魂の清潔さが示されているとばかり云えば、それはいささか単純であろう。そういう婦人の読者とのいきさつそのもののうちに、彼らの芸術と読者との間にあった矛盾や男女の問題における歴史的なくいちがいの悲劇が隠見していると思えるのであるから。――[#地付き]〔一九四〇年十月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)
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