婦人の創造力
宮本百合子

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 題は「婦人の創造力」という、何となし難かしそうな題目ですけれども、話の内容はそうぎごちないものでなく、昔から女の人で小説を書いた人があります、そういう人の文学が日本の社会の歴史の中でどんな風に扱われて来たか、また婦人はどんな風に小説を書いて来たか、今日私どもはどんな小説を書きたいと思っているか、或は将来女の人がどんな小説を書けるような世の中になって行くだろうかという風なことを、お話してみたいと存じます。
 女の人が文学の仕事をしたというとき、いちばん先に考えられるのは「源氏物語」です。「源氏物語」は立派な小説であり、紫式部がなかなか立派な小説家であったことは、作品を読めば分ります。けれども、その後の日本でこの作品がどんな風に扱われて来たかと考えて見ると、大変興味があります。昔から国文学者は「源氏物語」の立派さをいろいろな角度から研究して、ちょうどヨーロッパでシェークスピア字引があるように、「源氏物語」の中に使われている言葉について、家の造作について、着物の色合について、一つの字引のようなものさえできているような研究がございます。けれども、日本の国家が文化政策の中で「源氏物語」をどんなに評価して来たかと考えると、意味深い面白さがあります。
 先頃まで、日本というものは世界でいちばん偉い国だという風に支配者は吹聴しておりました。世界でいちばん偉い国が、自分の文化を世界に誇らねばならないとき、どういう文学を誇ったらいいのでしょう。偉い人たちが考えた結果「源氏物語」は、ともかくその内容も、様式も世界文学に類のないものだから、あれがいちばんいいと考えて、外務省の国際文化振興会ですか、ああいうところで「源氏物語」をいろいろな形で断片的にも紹介しました。この間ソヴェトの作家シーモノフ氏に会いましたとき、日本の文学について何を知っていらっしゃいますかと訊ねたら、「源氏物語」を知っているということです。それは、大変珍らしいものを知っていらっしゃる、どれだけ読みましたかというと、ほんの抜萃のようなもので、日本文学の代表として紹介されているものを読んでおられました。ソヴェトの作家でさえそうですから、他の外国では「源氏物語」という名だけは、或は有名になったでしょうけれども、その文学としての実体は、本当に理解されていなかったのでしょうと思います。今までの日本の対外文化政策で、「源氏物語」という作品をどういう風に紹介したかといえば、あの作品は日本の十一世紀頃に書かれたものであって、その作者である紫式部という女性は、藤原家出身の中宮が、政策のために自分の周囲に文学の才能ある婦人を召しかかえた、その宮女の一人であったという現実を率直に語りはしなかったでしょう。紫式部はこれだけの天才を持ちながら、歴史の中では藤原氏の一族中の末流の家に生れたことは分っているが、何子といったのか本当の名前は分っていません。紫式部というのは、女官としての宮廷の名です。女流文学の隆盛期と云われた王朝時代、一般の婦人の社会的な地位は、不安で低いものでした。その中から、こういう小説を書いた。そして紫式部が書いた小説にはなかなか立派な描写があるし、同時に彼女の生きた時代の女のはかない生き方、大変に風流のように、美くしそうではありますけれども、実際には、婦人の独立を守る経済基礎は全くなくて、男まかせの憐れなはかない女の状態を、女として、女のために苦しく気の毒に思っている。その作者の真面目な心も一貫して流れている物語です。
 日本の役人の文化政策は、「源氏物語」一つを例にとってもそういう社会的な背景、作品の社会的な意味をはっきり知らせて紹介しているのではありませんでした。ただ古典中の大変立派な文学で日本の誇りである、あなたがたの国に、女性によって書かれたこういう誇るべき文学があるか、という風に出されたのです。十一世紀以後の日本が封建的な社会制度をどういう風に変えて来たか、或は、どの程度までしか変える力がなかったか、その歴史の推移の中で今日紫式部の生涯はどう理解されているか、つまり日本の歴史の中で婦人の生活はどう推移して来ているかということなどには、触れずに紹介している。そうなると紫式部も「源氏物語」も、つまりは宙に浮いてしまいます。文学を、歴史やその作品の生まれた社会からきりはなして見ることは本当の文学の鑑賞の仕方、読み方でもないし、或は自分の好きか嫌いかを決める標準としても不十分です。
 もう一つ別の例を考えて見ましょう。イタリーをムッソリーニのファシズムの政権が支配してから、私ども日本へもレオナルド・ダ・ヴィンチ、ダンテなどをイタリー文化の華としてたくさんの金をかけ、大規模な展覧会まで組織して紹介されました。ファシズムのイタリーが、どうしてレオナルド・ダ・ヴィンチやダンテなどばかりを担いだのでしょう。ナチス・ドイツが、なぜゲーテばかりをあのように担いだのでしょう。そして、軍閥封建の日本で、どうして「源氏物語」ばかり世界に押出し、紫式部以後の日本の社会で婦人がどんなに生きて来ているか、婦人たちがどんな文化上の仕事をして来ているかということを人間の生活の発展の歴史として紹介しようとしなかったのでしょう。誤った民族主義や民族の自負心というものは、自分の民族の歴史を公平に判断し、その中から親切に民族にとって値打のある様々のものを発見してそれを世界に紹介するという態度をもたせません。いつも、自分の方にはこういうものがある、どうだ、という誇示した形でそれを示します。自分の歴史に科学的な客観的な評価がもてないのです。なるほど、レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネッサンス時代の大天才の一人であり、その綜合的な独創性は冠絶したものです。ダンテにしても、「神曲」は空想とリアリズムの混った独特な作品ですけれども、これらの人々から後、イタリーの民衆は営々として数世紀を生活しつづけて来ております。そして、マルコニーのように人類に貢献した発明家や卓越した何人かの音楽家、作家にしてもボッカチオのように市民社会の擡頭期を代表する立派な作家もありました。イタリー人の歴史の中には、たくさん立派な人が出ております。しかし、ファシズムは、主観的な、独裁の立場から、そういう風に本当の民族の宝を歴史の段階に応じて掘り出して、それを今日に生かすという角度から自分達の民族の歴史を見る能力をもっていませんでした。世界に対して自分だけが号令をかけようとしたばかりか、自分の民族に対しても文化独裁の号令をかけました。それには、誰にも一通り異存のない、民族の誇りという単純な固定した標準を押しつけて来た。こういう点から考えてみると、日本の最近数年間に「源氏物語」が官製翻訳され、文化上の偉い婦人作家といえば紫式部にきまったもののように扱われていたということに、却って、日本の文化がどんなに創造力を失い、圧しつけられ、文化史としての新しい頁を空白《ブランク》にされていたかという、重大な文化上の問題があらわれているのです。
 ところで、近代になってからの婦人作家の立場、婦人の文学はどういうものであったか。樋口一葉をとって見ましょう。一葉は明治の初め、自然主義が起ろうとする頃、それに対抗して活溌な文芸批評などを行っていた森鴎外を先頭とし、若い島崎藤村その他によって紹介されたヨーロッパのロマンティシズムの影響をうけながら、一葉自身がもっていた日本風の昔気質のような気分――美しいけれども狭い、狭いけれどもやはり美しいという風な一つの境地をもった文学に完成しました。まだ深く封建的な眠りがのこっていて、しかし半分目覚めている気持がヨーロッパのロマンティシズムと大変うまく結合して、美しい「たけくらべ」という小説ができました。この作品をたとえば、昨夜の露が葉末についていて、太陽が輝き初めるとそれが非常に美しく光る、しかしそれは消えて行く露である、そういう風な美しさ、美しさとしては「たけくらべ」は完成しています。一葉も大変代表的な立派な作家という風に見られております。けれども、一葉の時代はまだ日本にジャーナリズムが僅かしか発達していませんでした。『新小説』だとか、春陽堂から出ている『文芸倶楽部』とか――後には大変通俗的になったけれども、露伴だとか一流の作家たちも当時は『文芸倶楽部』なんかに書いたわけです。その頃婦人作家が擡頭して大塚楠緒子とかいろいろな人がいて、やはり芸術的な力では一応の作家だったけれども、当時の社会ではまだ文化が低かったから、それでもって食べて行くことはできませんでした。今日古い雑誌を見ますと、当時の婦人作家を集めて『文芸倶楽部』が特輯号を出していますが、そのお礼には何を上げたかというと、簪《かんざし》一本とか、半襟一掛とか帯留一本とかいうお礼の仕方をしています。そんな風に婦人の文学的活動は生活を立てて行く社会的な問題でなく、趣味とか余技のように見られていました。一葉なんかも大変に面白いことは、一方に「たけくらべ」のような作品もありますけれども、日記を読むとなかなか気骨のある婦人でした。御承知の通り大変に困難な日常生活をして、駄菓子屋までやるような生活をしていましたから、歌のお師匠さんの所へ出入りしても半分事務のようなことを手伝って教えて貰っています。そこで貴族的な女の人たちと一緒に歌の会があるときには、一葉は何時も腹の立つような思いをしました。そういう女たちは我儘で得手勝手で、名誉心が強く、一葉の才気を憎らしがってお嬢さんらしい図々しさで押しつける。それに対して一葉は憤慨しています。向島のお茶の席のような所に歌の会があって、きれいな着物を着て行った。――その頃はいまと違ってそういう所へ行くには三枚重ねの縮緬の着物を着て振袖で車を並べて行ったもので、一葉も借着をして行く。やっと体裁を繕って、自分の生活や気持とは大変に離れた環境の中で風流らしい歌も詠《よ》んで、帰って来ると、自分の心を抑えることができないで憤慨する。日記の中で、そういう女の人達に混って食うに食えないような自分、着物さえも借着である、そして、お追従を云いながらあの人たちの中に入っていなければならないのか、馬鹿らしいことだ、口惜しいことだと憤慨しています。自分の働いて生きて行く女としての立場、それから自分のように努力もしないし、熱心に文学の仕事をするのでもないただの平凡な男が男であるばかりで役人になって――あの頃は役人万能の時代だったから、正四位とかけちくさい私どもにわかりもしないような位を貰って、立派な着物を着たり、金時計を持って――漱石の「猫」でも金時計を書いていますね、金時計が一つのシンボルになった時代があります。――けれど私は陋屋の中で小説を書いている。女はつまらない、男は愚か者でも世の中を渡って行くのに、と一葉は或る自己批評をして、こんな苦しい生活を止めてしまおうかと思ったことさえあった。そんなに憤慨して熱血迸るというところがある。それだのに小説をお読みになれば分るように、「たけくらべ」「にごりえ」のようなものに女の憤慨を漏していますけれども、一葉はその時代の婦人の文学というものの考え方、いろいろなものに支配されて自分の憤慨している気持、向島の歌会の風流の中で憤慨して苦しく思った気持、それをその儘あれだけ立派な文章の書ける筆で書かなかった。若し一葉がそういう気持を小説として書いたならば、あの時代としたら全く新しい小説、新しい明治の女の小説であった。しかし、一葉はやはり自分の持っている社会に対する理解から文学というものを一つの風情としています。一つの凜《りん》とした形として自分の文学の中に表現して、人にも訴え、人の心の中にもその欲望がある、人の生活の中にも条件がある、お互いの生活に共通しているもの、それを感じることができなかったわけです。
 その後、大正の頃にな
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