えます。あの時あの女は「潰れますよ」と怒鳴っていた、そういえばひどいことだ、ひどいことといえば治安維持法がなくなってもまだまだ不合理はある、子供が電車の中で潰されて殺されたらその責任は親にあるなんてなんというひどいことだろうと考えます。しかし女なんて不思議なものだ、民法で妻は無能力者になっている、女は結婚すると無能力者になってしまう。一家を賄っているのに、自分で家を建てることも、借金もできない。しかし刑法では女は十分能力あるものとしている。そうして子供を電車で潰されたという女にとって不仕合せな事柄が過失殺人罪として罰せられる。これは輿論が喧しくて罰しきれませんでしたが、一方では無能力者であり、不幸になった時だけ能力者になっている。惨《むご》い話です。そういう風な一つの「潰れてしまいますよ」という声から私どもはそこまでだんだん考えて行くことができます。こうやって話している時にはいろいろな声を出して話す。声を出して考えるということは苦痛です。やはり私どもは声を出さないで考えることが楽だし、その方が深く入る。「助けて下さい」という声一つの経験、これを机の前に坐って考えて見ると、だんだんたぐって行って、深くなって、自分の子供の時はお母さんにおぶさって、こうだった、と子供の時の想い出さえも拡がります。ものを書くということは非常に面白いことだと思う。私どものいろいろな経験がただその時だけで過ぎてしまって、紙鉄砲みたいに或る一つの所を向うへ出てしまえばお終いであるなら、人生はあまりに詰らない。どんな苦労したとて甲斐がない。嬉しいことも甲斐がない。嬉しいこと腹の立つこと、すべてこれをもう一遍心の中へおき直して見ることは人生を二重に生きることになります。一生が五十年とすれば百年生きることだと立体的に考えることができます。またその時代にある女或は男が或る歴史的な条件の中でどういう風に生きて来たかという一つの時代まで生き切ることが出来ます。私どもの命はたった一遍です。しかもたった一遍しかない命を私どもはあれだけ怖い空襲などでやっと拾って来ているのです。しかもいまのように食えないとき随分骨を折って食べて生活しています。この命は値打が高い。決して一遍きり、スフみたいに使ったら棄てるなんて命じゃない、繰返し繰返し生きて行かなければなりません。そのためには私どもは立体的に生きるしかありません。立
前へ 次へ
全17ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング