問があればいいということに文部省で決めました。ですから、女の教育程度は明治の初めにおいては高かった、文学をつくる素質も高かった。そうして自分の能力を発揮することもできました。けれどもその後は男がつくって行く世の中で、男の損にならない程度に利巧であって男の邪魔にならない程度に馬鹿であるという女を要求しました。ちょうど日本の政府が徳川時代からの農民をそのまま小作人にしておいて――徳川時代には百姓は生かすべからず殺すべからず、はっきり生きればいろいろ文句をいうし、殺してしまえば働かないからといった考え方だったのと同じです。女というものもそれに似たようなもので、あんまり馬鹿でも困るが利巧すぎても厄介だという風にしてやって来た。そのため婦人の民主的な文学というものは婦人自身の中には非常に僅かしか芽生えないで、そのあとは進歩的な男の人達が文化全体の問題として問題にしました。
一葉の時代でも或る種類の――内田魯庵という風な評論家たちはやはり一葉なんかの文学に対していろいろ疑問を持っていたけれども、平塚雷鳥の出た明治四十年頃、青鞜社の時代という頃には女の人自身が自分達で自分達の才能を発揮するようにという希望で婦人の才能を押出そうとしました。ところが、その時代はまだ婦人のそういう風な才能を押出すということはその人が社会的に本当に独立していなければ成り立たない、親の脛をかじって気焔を上げても駄目だということが分っていませんでした。そのために平塚さんたちの青鞜社の運動も或る種類の僅かな人、たとえば野上彌生子さんのような人は後には青鞜社から離れたけれどもあの時代に出た人です。青鞜社の全体の方から申しますと、はっきりした社会的基礎をその人達が持っておりませんでしたから、雷鳥さんは年をとってしまって大本教の信者になった。社会の中にはっきり自分を密着させていなかったからです。
今から十何年か前に、世界と一緒に日本の民主的な文学運動――その頃はその時代の或る歴史的な理解からプロレタリア文学といわれたけれども、しかし根本は今日私どもが求めていると同じように、人間は人間らしく生きよう、人間の声は十分出されていいもの、そうして美しいものをつくって行こう、ということを主張した文学運動――がおこりました。その方向は、やはり民主主義的な基礎に立っていますから、婦人も特に男より劣ったものとは考えない。却って
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