。あることを経験しているときの、じかにそこから来る感動。それが直接で深く、どんな婦人のこころをもゆりうごかす文学となるためには、もう一重くりかえされ、しかも、自分からはなした、感動がいる。ある婦人が、ある事件・事情のなかで、そういう風に感動して生きた、という人間現実そのものについて、改めて感動する。それで、はじめて小説もかけるのである。
婦人の感受性はつよい。けれども、自分として感動した経験をそれだけで時とともに消させ鎮めさせてしまう。一重の個人的感動で終って、それを女としての感動、人間としての感動にまでひろげて二度目の感動を経験してゆく能力が弱い。婦人が、生活経験の多様さにかかわらず、それを人生的に収穫せず、文学的に再現しない理由だと思われる。
これは、日本のこれまでの社会が、すべての人の精神を、はっきり、社会人として目ざましていなかったせいである。今日青年たちの思いは千々《ちぢ》であるのに、芸術への表現がおくれているのもそのせいであるし、婦人の文学的発言がためらいがちなのも、そのせいである。
すべての婦人が、きびしい現実を生きとおして来た今、これまでの女流文学的空気は、美しさ
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