も、そうだと思う。今日二十代の人々の若い人生には、経験したこと、といえば実にどっさりのものがある。だのに、若い文学の領域をいくような新鮮な力で、それらは創作の活動に表現されて来ていないのである。何故だろう。
少くとも文学の感じがわかっている心は、自分が経験して強く印象され感銘されたことだからというだけで、それを書いたところで、文学として意味がないということを理解している。では、その人間的な感動を文学であらしめるものは何か、という点になると、これまでの文学の解釈は十分答を出しきっていない。文学的な才能という、ありふれた、そして、有害な言葉が、そこへのって来る。特に、婦人は、才能がある、ない、ということにかかわって、消極的にさせられて来た。各人の人生と生活の経験を文学であらしめるものは、文学的才能などという、浅薄な偶然な資質ばかりではないと思う。人間性をゆすぶる様々の経験に対して、自分としてそれをどう感じ、理解し、その経験から何を獲て生きぬけて来たか、という諸関係について、本人がどうはっきりそれをつかんでいるか、という点が文学となって再現されるキイ・ポイントである。従って感動が二重になる
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