、そのお蘭のために身をすてる不遇な青年直次郎を配し、刃傷などをからめた作だが「花ごもり」に比べて興味のあることは、作者一葉がこの作で初めて作品の世界の雰囲気というものを或る程度まで描き出すに成功していることと、冷やかな笑のしたに凍る女の怨みの情緒をこまかに辿りながら「花ごもり」にない客観的な皮肉な態度で、一篇の波瀾の終末をややつきはなして眺め描いていることである。波崎が恨みの刃をうけながら、却って「向ひ疵とほこられんが可笑し、才子の君、利口の君万々歳の世に又もや遣りそこねて身は日蔭者」になる直次郎。三月もするうちにいつか主がかわった松川屋敷、「お蘭も何処に行きたる、世間は広し、汽車は国中に通ずる頃なれば。」と結んでいる。
やはりこの年十二月『文学界』へのせた「大つごもり」では、題材の範囲が一歩ひろめられ、これまで大体富めるも貧しきも当時の所謂小説めいた架空のシチュエーションで扱われていたのが、この作品で、貧につまって盗みをする下女が主人公として現実的な筆致で描かれているのが目をひく。
二十八年五月の「ゆく雲」で、一葉は初めて筋よりも心理を描く近代小説に近づいて来た。この年は広津柳浪の有名な「黒蜥蜴」や泉鏡花の「夜行巡査」「外科室」などが、文学史的な問題をもってあらわれた年であり、一葉も終生の代表作となった「にごりえ」を七月に「たけくらべ」を十二月にかいた年である。硯友社の文飾的要素の多い文学は内面的な発展の要因を欠いていたため紅葉の努力にもかかわらず陳腐に堕して、硯友社門下の中からも、鏡花のように、当時観念小説とよばれた新しい探求を世俗の常識的な概念に向って投げかける試みがあらわれて来た時代である。
一葉は、萩の舎の将来の後継者としての面では、進みゆく時代の文学的空気に極めて微々としかふれ得なかったが、二十八年の二月の日記には、文学についての保守的な考えかたに反対した意見をかきつけている。「ひかる源氏の物語はいみじき物なれど、おなじき女子《をなご》の筆すさびなり。よしや仏の化身といふとも人の身をうくれば何かことならん。それよりのちに又さる物の出でこぬは、かゝんと思ふ人の出でこねばぞかし。かの御ときにはかのひとありてかの書をやかきとゞめし。此世には此世をうつす筆をもちて長きよにも伝へつべきを、更にそのこゝろもちたるも有らず。はかなき花紅葉につけても、今のよのさまなどうたへるをば、いみじういやしきものに云ひくだすこゝろしりがたし。今千歳ののちに今のよの詞をもて今の世のさまをうつし置きたるを、あなあやしかゝるいやしき物更にみるべからずなどいはんものか。明治の世の衣類、調度、家居のさまなどかゝんに、天暦の御代のことばにていかでうつし得らるべき。それこそは、ことやうなれ。」
これまでも、文学の純粋さを守ろうとする一葉の感想は様々の形で様々の矛盾をふくみながら語られて来ていたが、ここで、初めてそういう芸術至上の感慨の表現ばかりでなく、はっきりした自分の創作態度というものを表明しているのは興味ふかい。一葉はここへ来て、自分を旧来の女流文章家というものから区別する明瞭な一つの自覚をもち始めるようになったと思われる。自分の生きている時代の描きてとして自分と自分の文学とを後世に向ってうち出して行こうとするはっきりした意図。旧套の和文脈美文が示している表現力の限界を理解して、生活の中からの言葉、表現の評価に目を向けていること。いずれも、一葉の作家的自覚の著しい進歩と高まりである。
自分の芸術に対して、ここまで歩み出した一葉は同時に日常生活に向っても次第に雄々しい腰の据りを示して来ている。或る日の夕はんがすんだら、あとにはもう「一粒のたくはへもなし」と母の瀧子はしきりに歎き、邦子はさまざまにくどく。もとの一葉であったなら、勝気な胸に忽ち例のわが身一つは捨てもの、という動揺を感じて癇をたてたであろう。けれども、この時は「静に前後を思ふてかしら痛き事さま/″\多かれど、これはこれ昨年の夏がこゝろなり、けふの一葉はもはや世上のくるしみをくるしみとすべからず、恒産なくして世にふる身のかくあるは覚悟の前なり」と云っている。
一葉を、そこまで押しすすめた力は、果してただ一葉ひとりの天分とでもいうようなものだけによるだろうか。日記にはごくあらましの表現で云われているが、当時、一葉の周囲をとりかこんでいた『文学界』の人々の影響は、一葉の成長に見のがせない意義をもっていると思う。
「雪の日」を『文学界』にのせて以来、同人たちとの交際は次第にひろく近しく繁くなって来ていて、一葉が丸山町の池のある家へ住むようになってからは、一日に誰か同人たちが訪れない日はないという有様となっている。人生上のいろいろな若々しい感動、文学についての論談やヨーロッパ文学の噂も、論談風発という工合であったらしい。萩の舎では「ものつゝみの君」という名をつけられた一葉も、文学界の人々とのつき合いでは、なかなか闊達で、自在で、警句も口をついて出たらしい。二十五年ごろ内田魯庵が翻訳した「罪と罰」の話に一葉が興味を示したというのも、おそらくはこういう場面での収穫であったろう。「時は五月十日の夜、月山の端にかげくらく、池に蛙の声しきりて、燈影しば/\風にまたゝくところ、坐するものは」と若い文学界の誰彼の姿をも日記にかいている。
知られているとおり『文学界』のロマンティシズムを貫いて何より熱く流れていたのは、あらゆる封建の習俗への抗議であった。男と女との情愛と云えば肉体的なものしかみず、痴情しかみなかった過去のしきたりとそこから生れた文学への反撥である。女を精神あるものとみて、男と女との愛と呼ぶものに美しい勁い精神の輝きを発露させたいという希望が、『文学界』の雰囲気にどれほど濃くもえ漂っていたかということは、敗れて自殺した透谷の文章に、女性への幻滅がかかれていることにも知られる。
このロマンティシズムが日本の明治二十年後半という時代にあったという特徴は、例えば、藤村の初期の抒情詩のこころと形とが悲しいばかりまざまざと語っている。藤村は、何とうちふるえるような情感のたかまりで、若い男と女のやさしい心の恋をうたっていることだろう。同時に、それらの調子、様式は「お小夜」の黄楊《つげ》の小櫛の古さがまだまだおもくきついなかから、重きが故に愈々その声の響きは遠く高くとあこがれる。そのような当時のロマンティシズムの日本らしい特徴は、同人たちの一葉をかこむ気分にも十分にじみ出していただろうと思う。
一葉が当時の婦人として例外であった作家でしかもその人がらが並々でないこと。一つ家に母や妹はいても、あるじは若い女性の一葉であるという珍しい空気。しかも、その家は若いロマンティストたちの反撥をそそる権門富家ではなくて、親しみやすくつつましい市井の住居で、若い女の一葉が筆ひとつにたよって此世を過してゆこうとしている境遇も、その人々の心をひきつけてゆくものであったにちがいない。
文学論を文学論として一葉は何一つかきとどめていず、自分としてもそういう形でうけとってはいなかったらしいけれども、話の中から一葉が直感的に感覚としてうけた新鮮な刺激、文学的亢奮は決して浅いものでなかったと想像される。
しかし、そのつき合いに対しても、一葉は一面に男の人たちはよろずにおおらかで、話し甲斐もありと見ゆれど「それもさるものにて、いさゝかやましきことそはぬにしもあらず」という気持をもっている。このひとたちは、今はこうやって、無識無学の女一人の自分に議論の仲裁などをもさせ、将来どんな境遇になっても友情に変りはないと云っているけれども「親密々々こはこれ何のことの葉ぞや」「偽《いつはり》のなき世《よ》也《なり》せばいか斗《ばかり》この人々の言の葉うれしからん」という感情も一葉にあった。そして「かりそめの友といふ名に遊ぶ身なり。このかるやかなる誓さへ末全からんや」と人のつき合いのはかなさを歎いている。一葉は大音寺前をひき上げて来るとき一つの心の飛躍をしていて、その飛躍の性質はやがて彼女に「うら紫」のお律の人生態度を描かせたものと通じている。「花ごもり」のお近が一葉の処世の全部の気持であり得なかったと同時に、純真な青年たちの感激の言葉に対しても同じ年ごろの女性らしい全心の傾倒は示さないで、偽のない世ならこういう言葉もどんなにうれしく聞けるだろうという不信を抱かせている。
人生や友情に対するそういう実際的な不信頼懐疑をも、一葉はむき出しな人生論として皆とは話さず、その時代らしく仏教的に行方定めぬ人の姿として自分の感情の中にもっていただろうし、その期待するところのすくないような一葉の友情の態度は、『文学界』の人たちの情緒に、一種端倪すべからざる複雑さで映り、なお友情のニュアンスをふかめることともなったにちがいない。
一葉と『文学界』の潮流との交渉はこのように、文芸思潮の表面からは論じがたく、しかも、一葉の芸術の感情的なゆたかさ、高まりのための刺戟としては、血肉のつながりをもって進んだ。
二十八年七月の「にごりえ」は、このような周囲の雰囲気の中から生れた。当時も大変好評で、『文学界』の人たちはこころもちのよい無私のよろこびを示している。一葉は「此世にはこの世をうつす筆」というはっきりした自覚に立って、自分の住居の隣りにある銘酒屋の女たちの生活や身辺の実際の人の身の上などから、この一篇を書いた。庶民の日暮しの目撃に立ってかいている。この一篇も注目すべき作品ではあるけれど、源七がお力を殺して死ぬのが結末となっている全体の結構はやっぱりまだ「やみ夜」などの系列に属していて、裏長屋の描写の細部も精密ではあるが一般的である。広津柳浪は既に「残菊」などで心理描写だけの小説を試みているけれども、一葉は、お力の心の浮沈を辿ったその執拗さで源七の心理を追究しようとは試みていない。よしんば源七はあり来りの型どおりの心の動きにあっても、お力が得心ずくで死んだのか、あたりまえの怨の刃で命をおとしたのか、そこが、「にごりえ」のテーマの頂点であろうが、そこを近所の人々のとり沙汰でだけ語らして、作者はそのかげに入ってぼやかして、人魂ばかりに長き恨みをかこつけていることにも関心をひかれる。第五節の終りの、お力が苦しい切ない乱れ心地で夜店の出た賑やかな町を歩いてゆくところの描写は、痛切で生々しく、今日でも実感に訴える感覚のとらえかたとして圧巻である。
「たけくらべ」は、はじめ『文学界』に連載されたものだが、のち、二十九年四月『文芸倶楽部』にまとめて発表されて、遂に一葉の名を不朽にする作品となった。
十ヵ月ほど一文菓子をやって暮した大音寺前の生活は、初めてそういう土地に住んだ一葉の観察眼に、実にくっきりとその朝夕の特殊な気風をうつして見せたにちがいなく、「たけくらべ」の女主人公、大黒屋のみどりをはじめ描かれている少年少女は、その感情のませかたも、動きも、モラルも、風俗もことごとくが、吉原という別天地をめぐる一画の具体的な真の姿として捉えられている。一つ一つの情景が「にごりえ」のような一般性で描かれていず、そのまま舞台へものぼせられると思うほど、立体的に動的で、それらの溌剌とした動きをつつんで、みどりと信如の恋心とも名づけられない稚い日の思いが、雨の日のぬかるみに落ちた友禅の小切れや、門の格子にのこされた一輪の水仙に象徴されて、生新な息ぶきを全篇におくっているのである。
子供から大人にうつりゆく少年少女の心理を小説にかこうという意図そのものが当時にあって前例ない試みであった。一葉はその上に、女が女を描く独自の清らかさとふくみと情とをもって、みどりの少女から娘への肉体と心の推移を描いている。信如と正太郎の境遇や心持の対照、長吉と三五郎との対照、そこには子供の世界を描く大人の側からの感傷的な甘えというものがちっともなくて、子供たちの生活に映っている大人の世界、その中では子供たちも大人の義理や意地立て世過ぎの姿と同じものにまきこまれ動かされ泣き、こらえ生きている。
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