そのような日々の色どりが描き出されているのである。
これまでの作品では、「にごりえ」にしろ一葉の才筆というものが作品の上側に浮いていて、とかく文章をよまされる感じであるが、「たけくらべ」では、文才は描き出されて来るもののかげにしっかりと入っていて、その頃は人々が暗誦までしたという十二章前後の描写も、決してただ口調のよい美文ではない。
明治二十九年と云えば、日本の文学の空気の中に「吉原」はまだ伝統の響をもっていて、読者の感情はその名によって既に或る準備があたえられているところへ、男の作家は何人も見なかった大門そとの長屋暮しの界隈の生活をとらえ、そこに点ぜられたみどりと信如の淡くしかも忘れ難い稚い恋の色彩は、当時の感情にとって、どれほど懐しく馴染ふかく且つそれ故に一層の新鮮さに駭《おど》ろかされるものであったろう。
『早稲田文学』によっていた逍遙などに対立して、ロマン派の文学的傾向に立ってその頃文学の神様のように見られていた森鴎外が、二十九年一月に発行した『めさまし草』三人冗語で「吾はたとへ世の人に一葉崇拝の嘲を受けむまでも、此人に誠の詩人といふ称を惜しまざるなり」と評し、露伴は「此のあたりの文字五六字づゝ技倆上達の霊符として飲ませたきものなり」と称讚した。
「たけくらべ」の抒情の美は、一葉がどれほど大音寺前の見聞をこまかにとりあつめたとしても『文学界』の人々からの情緒的影響なしには決して生れ出なかったものだと思われる。それとともに、今日から眺めかえせば、当時のロマンティシズムがその旧さでも新さでもこの「たけくらべ」一篇にきわまったような形を示しているのも実に意味ふかく考えられる。
後に社会文学・自然主義文学の運動に活躍した内田魯庵などが、大体一葉の芸術の境地に疑問を抱いていて、一葉も魯庵はすきでなかったといわれていることも、時を経た今では公平に私たちを肯かせる必然が感じられるのである。
その頃一葉のまわりの賞讚の声というものは、作者に安らかなよろこびを与えるより以上に不安とその賞め言葉の浮動性を感じさせるほどであったらしく、一見傲慢とも見える苦しさで「たゞ女義太夫に三味の音色はえも聞きわけで、心をくるはすやうなはかなき人々が一時のすさびに取はやすなるらし」と歎じている。「我れを訪ふ人十人に九人まではたゞ女子《をなご》なりといふを喜びてもの珍しさに集《つど》ふ成けり、さればこそことなる事なき反古紙作り出でても今清少よ、むらさきよとはやし立つる誠は心なしのいかなる底意ありてともしらず、我をたゞ女子《をなご》と斗《ばかり》見るよりのすさび、さればその評のとり所なきこと、疵あれど見えずよき所ありともいひ顕はすことなく、たゞ一葉はうまし、上手なり、余の女どもは更也、男も大かたはかうべを下ぐべきの技倆なり、たゞうまし、上手なりといふ斗《ばかり》その外にはいふ詞なきか、いふべき疵を見出さぬか、いとあやしき事ども也」とも書いている。
この評への評にも、当時のロマンティシズムの限界が間接にうかがわれる。鴎外も「たけくらべ」に対してはハルトマンの美学をひいての分析は試みず、一葉の完成とそこにある新しさの土台をなしている旧さを捉えず、当時擡頭しかけていた観念小説、社会小説の波に向って、我が文学陣の選手とばかり推したてたのだろう。
それならば、一葉自身「たけくらべ」に対してどんな客観的な自評を抱懐していたかと云えば、今日私たちがうなずけ得るのは、賞讚への不安と物足りなさの表現ばかりである。正面から異議ありという魯庵を、一葉はきらいな人という自分の感情だけで見ている。一葉の「たけくらべ」以後の成長と発展とはこのような点からみても非常な困難におかれていたと思う。
題材的に「大つごもり」「にごりえ」「たけくらべ」と移って来た一葉が、初期の月並な和文脈からこの人らしい抑揚の雅俗折衷の文体へと変化しつつ、猶口語の文章にうつり行かなかったところには、作家としての深い必然があったと考えられる。二十九年に終った一葉の二十五歳の生涯を貫いた女としての情感は、外からうけた教養が開化期以後の反動時代で和文系統であったというだけでなく、情緒の構成そのものが、半ば解かれたる如くであって猶二つの脚はしっかりと封建の慣習にとらえられているところからの身もだえ、訴えの曲線をもっている。二つの手二つの脚をのびのびと動かしてうるさいものを払いのけてゆく女の生きかたとはまるで異った抑制と、その抑制をついに溢れ破らんとする力との苦しいかね合いにおかれていて、その情感の綿々たるリズムは、烈しければ烈しいほど、雅俗折衷の調《しら》べにこめ得る格調と曲線とを己《おのれ》の声としなければならない。
口語というものには近代の論理性があって、文章の構成は立体建築に似ている。心理の追究は可能であるけれども、縷々《るる》とかきくどく雅俗折衷文の余情脈々のリズムは、そのままには存在しない。
一葉が口語文でかかなかったことを遺憾とする学者もあるだろうけれども、一葉の心情の肉体的曲線そのものが、その一つ前時代の雅俗折衷にあったので、例えば口語体でかかれているただ一つの短篇「この子」をみても、それは考えられると思う。「この子」には一葉らしい才の閃きは小さく見えるけれども、骨格の常識性がいかにもむき出されて、もし一葉が口語の小説をその調子で書きすすめたらば、或は「たけくらべ」を嘗て書いたのはこの同じ人かという感想を与える結果を来したかもしれない。いつしか通俗文学に入ったかもしれないとも思える。一葉には、自分が恋愛について、友情について、人情のあやに対して抱いている人生感の窮極にある旧い常套を我から抉り出す力はなかった。当時のロマンティストたちの影響はそのような一葉の矛盾そのままを美に高める暗黙の作用としてだけ役立ったのであった。
「うら紫」は最後の作であって、このなかに一葉の新しい展開のモメントが蔵されているという意見もあるようだけれど、果してどうであろうか。表現の方から云って、もしこの作品から後に一葉が口語でかくように向ったとして、それが文学として高い峯に近づくためには、「うら紫」のお律の女としての生きかた、その居直りかたに、もう一歩つき進んだ作者の社会的な見解が期待されるのではなかろうか。無言に晴らす女の恨みのつめたい笑いへの共感以上に、自分の愛さえ良人に対して盗みの形で守ろうとしなければならない女の在りようについて、その正当な主張の可能を探ねる方向で、女としての大きい同情と哀憐と正々堂々さが求められるのではなかろうか。そしてそのことは、一葉にあっては、十五歳で萩の舎の門に入り二十五歳でその生を終るまでの複雑をきわめた十年間の生活が、彼女の内面につみ重ねた人生観の飛躍的な大整理、一つの歴史性から次の一つへの質の飛躍を意味しなければならないことであったのだろうと思う。
三宅花圃と樋口一葉とは、近代日本にとって先駆的な同時代の婦人作家、同門の出身、その上対蹠的な境遇ということから、常に照しあわせ対立してみられて来ている。
花圃の「藪の鶯」は当時として新しいものであったかもしれないが一種の風俗小説で、芸術としての美、詩情の美は、旧来の日本の女の最後の代表者ともいうべき一葉の作品に遠く及ばないというのが定評であると思う。だが「藪の鶯」の新しさそのものが、そこにある思想の本質では明治二十年以前にあった婦人の新しい社会生活への動きが幹で截られたあとに生えた蘖《ひこばえ》にすぎず、しかも蘖《ひこばえ》たる自身の本質について作者は全く無自覚であったということは、「たけくらべ」の作者一葉が、自身のロマンティシズムのうちにふくまれている矛盾について知る力を持っていなかったことといかほど逕庭があるだろう。近代日本の婦人作家の歴史が、このように自ら流れる方向を知らない源から発して、今日に到っているということには、婦人作家たちが経なければならない歴史的運命が、ひととおりならぬものであるということについて十分の暗示をなげていると思われるのである。
三、短い翼
一八九七―一九〇六(明治三十年代)
樋口一葉の亡くなった翌年の明治三十年十二月に編輯され、三十一年一月に発行された『文学界』はそれを最終号として廃刊になった。明治二十六年一月に創刊されて、日本のロマンティシズム運動とともに忘れ難いこの雑誌は、五年間の任務を果し、今やその表紙に竪琴《ハープ》を、扉の口絵にはロセッティなどの絵をのせた姿を消すこととなった。藤村が「告別の辞」をかいた。
ロセッティ、ハント、ミレエなどがP・R・Bなる詩社を結ぶや、『ジャアム』という名で発刊されていた雑誌は四ヵ月で廃刊にになったが、『文学界』は経済的にも困難な中を五年の間努力して来た。けれども今日の廃刊は「通例柳を折り草を藉きて相惜むの別離に非ず、これ永く相別るるなり。この草紙の終りにのぞみて読者と共に相酌むの酒はこれ再び相見ざるの盃なり」「別離の情は懐旧の情なり」「複雑なる泰西の文化が単純なる固有の思想と相たたかふの跡を見しも、フロオベル、ドオデエ、ゾラ等の奉ずるといふなる実際派の勢力は吾国の小説界にまで著しき傾向を与へんとしつつある様を眺めしも、またあはれなる『ロマンティシズム』の花の種のそこここにちりこぼれたるを見しも、実にこの間にありき。」「まだ百花爛灼たる騒壇に遇はずして先づ住みなれし故郷を辞せんとはすなり。」
藤村のこの告別の文章は、適切に当時の文学の動きうつりつつあった有様を語っている。
同じ『文学界』でも、終りに近い号には花袋の「かくれ沼」などという写生文脈のうかがわれる小説がのせられているし、藤村自身、詩文集『一葉舟』を出し、文学界には「木曾谿日記」をのせ、やがて小諸義塾へ教師としてゆき、次第に写実的な傾向で小説に固まろうとしている時代である。秋骨は、吾が国現在に主義なく、思想の破るべきなし、「やむなくば理想の世界に遊び、はた力行の世界にかへらんかな」と『文学界』の最終号にかいた。
日清戦争の後の日本の社会的な条件の変化は、各人に各様の刺戟となって、一葉の周囲に僅か一二年は渾然と在り得た文学界同人の方向をも分裂させたのであった。
三十年という年には、新しく子規の『ホトトギス』が創刊され、三十一年には社が東京にうつって、俳句の新運動と写生文が益々活溌な影響を与えはじめた。時代の空気は文学界の同人たちから「洋装の元禄文学」という批判をうけて来た紅葉にも「金色夜叉」をかかせるようになった。蘆花の「不如帰」の出たのは三十二年である。
与謝野鉄幹を中心とする新詩社から『明星』が発刊されたのが三十三年であって、『明星』のぐるりに今日洋画壇の元老たち、藤島武二、結城素明、石井柏亭、児島喜久雄、黒田清輝、岡田三郎助、青木繁、満谷国四郎その他の人々があつまったことも、明治二十九年の日本で初めての光彩ある前期印象派の団体白馬会の生れたことと照しあわせて興味ふかい。
この『明星』は、『文学界』の最終号で、藤村が「あはれなるロマンティシズムの花の種のそこここにちりこぼれたる」と云った、その一つの花の種であることは明かであったが、日清戦争の前と後とでは、ロマンティシズムの種も変化を蒙って、鉄幹の新詩社は、文学界の芸術至上に立つロマンティシズムを気弱だと評した。そして鉄幹は、三十年に発表した詩集『天地玄黄』で、戦勝日本に漲った民族の意識を代表し、新たにうちしたがえられたと思われた土地へ流れひろがろうとする欲望の歌いてとして自身をあらわしたのであった。
鉄幹のそのような「荒男神」ロマンティシズムは、三十四年に有名な「美的生活論」を書いて、後世から支配する者のロマンティシズムとして認められている高山樗牛のロマンティック思想と本質をひとしくするものであり、ロマンティシズムとしての社会的感情の源泉も、はなはだ目前の事象的亢奮に刺戟された支配者的な要素の多いものであった。
樋口一葉は、このような三十年代日本の渾沌の前後、前期ロマンティシズ
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