のをもっていて、何でもねっちりと熱してゆく一面があり、大衆小説には向かないと桃水にきわめ[#「きわめ」に傍点]をつけられたり、萩の舎塾の歌会なども詠草はいつも一番びりに出していたという素質こそ、芸術家一葉にとって非常に意義ふかく思いあわされる条件ではないだろうか。その悲しみやよろこびが小市民風な範囲の中に限られて終始した両親の身うちに、甲斐の農民の血がながれて、一葉につたえられていたところに興味がある。
「いでや是より糊口的文学の道をかへてうきよを十露盤の玉の汗に商ひといふことはじめばや。」歌の会などの折にと、とってあった一二枚の晴着まで売りはらって、七月十七日に下谷龍泉寺町、大音寺前とよばれているところに間口三間奥行六間、家賃一円五十銭の家を見つけて、引越した。
吉原のおはぐろ溝に近いその家には、殆ど徹宵廓がよいの人力車の音が響いた。壁一重の隣りには人力車夫が住んでいる。毎朝一葉は荷箱を背負って問屋の買い出しに出かけ、五厘六厘の客も追々ふえて、六十銭一円と売りあげもあるようになった。細かい商いだから一日百人の客がないことなく、そういうせわしなさにいくらか馴れると、一葉は店を妹にまかして図書館通いもした。
一年に足りないこの大音寺前の生活は、のちに「たけくらべ」を生む地盤ともなり、一葉の一生に特別の意義を認められている。同時にここの特殊な猥雑濃厚な生活環境は、一月一月と経つうちに、感受性のつよい一葉の二十こしたばかりの感覚に、極めて隠微な、しかもおそろしいような影響を与えはじめたのも事実ではなかったろうか。
荒物屋をひらくときの心機一転して裾を高々とはしょりあげたような気分、荷箱をはじめて背負ってみて案外に重きものなりとさらりとしている生活の感情。そういう思い決した颯爽さは、彼女が当時の日記の題を「塵の中」とつけた、全くそのようにしか云いようのない環境のみじめさ、いやしさ、異常性のなかで、勤労の清潔な鋭さを次第に曇らされて行ったのだと思われる。大音寺前の貧は、貧であっても、それは人間の屑のふきあつまりめいた貧で、その一方では、昼夜をわかたぬ廓の繁昌が鳴りとどろいている。界隈に瀰漫している空気には、何とも云えないモラルの虚無的な麻痺が漲っているわけであろう。堅気な、そしてくだける波にさえ花は咲くものを、という思いを抱いている一葉にとって、そういう近所合壁にまじって遂にここに朽ち果て終る我が身かという不安は、追々新たな落つかなさ、焦燥となって迫って来たにちがいない。
周囲から日夜あたえられる刺戟は、そういう不安からの脱出の方向の求めかたにも影響している。焦燥は一葉のこころをこれ迄になかった射倖的な、僥倖をさがす気分に狩り立てて行ったように見える。
二十七年の二月に、こんなことがあった。廓生活の見聞からであろう、美貌で才のある女は、よしやしもがしものしななりとも、遂にあまくも棚引位、山のたかきにのぼることもむずかしくはないだろうと云ったら、妹の邦子が、それはみさおというもののない人でなくては出来ないことだと云ったに対して、一葉は、
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くれ竹のぬけいづるさへあるものを
ふしはこのよになにさはるらむ
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と詠んでいる。
二月に門人の花圃が歌塾をひらくことをきいた。中島歌子は一葉にもしきりにすすめて、いかでこの折すごさず世に名を出し給はずや、と一葉の心を誘い立てている。
この月に一葉が「花ごもり」を書きはじめていることは、私たちの関心をひく点である。七[#「七」に「(ママ)」の注記]月号の文学界にのったこの「花ごもり」は、一葉の小説としてはじめて性格らしい性格をもったお近という五十女が描き出されているばかりでなく、余蘊なくリアルにうつされているそのお近の世道観、処世哲学というものは、よくもわるくも浮世はこうしたものという腰の据えかたに徹したものである。お近のモラルはこうかかれている。「親子夫婦むつまじきを人間上乗の楽しみといふは、外に求むることなく我に足りたる人の言の葉ぞかし。心は彼の岸をと願ひて中流に棹さす舟の、よる辺なくして波にたゞよふ苦しさはいかばかりぞ。」「今の心いさゝかは屑《いさぎ》よからずとも、小を捨てゝ大につくは恥とすべきにも非ず。」「陋劣《さも》しきことゝ誹るは誹る者の心浅きにて、男一疋なにほどの疵かはつかん。草がくれ拳を握る意久地なさよりも、ふむべき為のかけはしに便りて、をゝしく、たけく、栄ある働を浮世の舞台にあらはすこそ面白けれ。」「望は高くせよ、願ひは大きくせよ。」「卯の毛の先きの疵もつかで五十年の生涯を送りたりとて、何事のをかしさあるべき。一人に知らるべきことは百人に、百人に知らるべきことは万人の目の前に顕はして、不出来も失敗も功名も手柄も、対手を多数《おほく》にとりて晴れの場所にて為すぞよき。」そういう人生観に立って、お近は大学出の伜与之助と金持田原の娘との結婚話をすすめてゆく。
「わが為の道具につかひて、これを足代《あじろ》にとすれば何の恥しきことか、却つて心をかしかるべし」そして、「思召はきれいなりしが、人をも世をも一包みにする量なければ小さき節につながれて」「小さき結構人」で終った亡夫を罵っている。
更に目をひかれることは、このようなお近が末は一緒と思っていたお新を遠ざける方策をたてたりしていることに対して、与之助は優柔不断で、われながら解しがたき心のいず方に向いてすすむらんという状態のうちに、周囲ではどしどしことを運び、一番弱いお新が思いあきらめて、恋しいときはお姿を描けるように、と田舎住居の絵師の召使いとなって去ってゆくのである。
お近にこめている一葉の筆の力、それに対して与之助がたたかう力をもたない人物として現れている作者の内面的な機微、これらのことを、丁度一葉がこの作品をかいている最中に本郷の天啓顕真術師久佐賀義孝という男のところへ身のふりかたを相談しに行ったことと思い合せると、今日の読者として或る感想なしには居り難い。
萩の舎の代表する社会層の空気に反撥を感じつづけて来ている一葉は、そこにある富貴と同じ内容の他の極として自分の貧を対比して、そのどんづまりで一躍、生ぬるい富貴栄誉に水をあびせるような飛躍を希いはじめたのであった。一葉は「うき世にすてものゝ一身を何処《いづこ》の流れにか投げ込むべき、学あり力あり金力ある人によりておもしろくをかしくさわやかにいさましく世のあら波をこぎ渡らん」とて、久佐賀の許を訪ねた。運を一時のあやふきにかけ、相場といふことを為して見ばやと相談した。
日清戦争がまさにはじまろうとしていた二十七年の二月、北村透谷がそのロマンティシズムの窮局に見た絶望によって自殺する三月まえ、堺枯川が小説などかきはじめていたこの時代の日本の、より近代資本化への社会的混乱のなかで、二十三歳の一葉が、おもしろくさわやかに世を渡らんと相場を考えたというのは、決して只糊口のしのぎのためでなかったことは、種々の点から理解される。
天啓顕真術がまやかしものであったこと、久佐賀が面白い女とみて、妾のようにしようとしたこと、それに対して一葉が味のよい啖呵をきったことなどがあって、それが転機となって、一葉は悟りに入ったように解釈されて来ているのだが、一葉が、再び文学のことに携る決心をかためるに到った心の足どりの複雑さは、天稟うけ得た一種の福があると久佐賀に暗示されただけが動機ではなかったろう。
天啓顕真術へ行って来た翌々日、女学雑誌で、三宅龍子、鳥尾ひろ子がならんで歌塾をひらくという記事をよんで「万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し」とあるが、その万感は、ただくやしいばかりのものではなかったろう。考えがめぐってめぐって火のもえるようであったのだろうと思う。
その燃える焔が、日記のなかで有名になっている花圃への罵倒となって迸り、同門の田中という女に、同じけがれとしても万人のすてた此人にせめては歌道にすすむはげましだけはと気負って表現されたりしているのだと思える。
頭の中を火がかけまわるようなその状態が次第に沈静して来たとき一葉はこう考えるようになって来た。「こゝろは天地の誠を抱きて、身は一代の狂人になりも終らば、人に益なくうきよに功なく、清濁いづれをまされりとせんや。」「されば人世に事を行はんもの、かぎりなき空《くう》をつゝんで限りある実《じつ》をつとめざるべからず。」「一人の敵とさしちがへたらんは一軍にいか計《ばかり》のこうかはあらん。一を以て十にあたる事はいまだし。万人の敵にあたるはかの孫呉の兵法にあらずや。奇正此内にあり、変化運用の妙天地をつゝんでしかも天地ののりをはなれず、これをしるものは偉大の人傑となり、これをうしなふものは名もなき狂者となる」
誰の目にも明らかなこの常識論が、特に一葉の場合関心をひくのは、お近によって、もっとむき出しに云われていた同じ常識論に対して作者は与之助をずるずる敗けさせたまま「花ごもり」を終った、そのつづきを、今は、自身にうけいれているからである。しかも、一葉は、そういう常識に結局はおさまる我が心というものに対して、ちっとも観察批判を働かせていない。芸術家の生きてゆく問題の本質は、そういう常識を孫呉の兵法云々で表白することにはなくて、そう表現して自分に肯定させてゆこうとしている我が心の、もう一皮奥の心の在りようとでも云うべきものへの追究にこそ、かかっている筈ではなかろうか。
年齢の若さではない一葉の本質の或る一つのものがここに潜んでいる。この本質的なものと、時代の慷慨的なものとが微妙に結びついて、その年の三月には、「いでやあれしは敷島のうた斗《ばかり》か」という心持にまとまって行っている。「労するといへどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし、いでさらば、分厘《ふんりん》のあらそひに此一身をつながるゝべからず。」「このあきなひのみせをとぢんとす。」
一葉の文体はこの頃から少しずつ変化して来ている。定型をふんで来た和文脈の文章はその人のリズムのあらわれたものになりかかっているのも興味ふかい。
一葉の「もとの心はしるやしらずや」樋口の三人は三様の心で、大音寺前の長屋から、本郷丸山福山町の、ささやかな池の上に建った家賃三円の家へ引きうつった。一葉は「花ごもり」を心理のかくれた土台石として、
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おもひたつことあり、うたふらく
すきかへす人こそなけれ敷島の
うたのあらす田《だ》あれにあれしを
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という心持から。邦子はもう零細な商いにあきた気持から。そして母の瀧子は、小さくとも門構えの家に住んでやわらかい着物でも重ねたいという願いから。引越しのあったのは二十七年五月一日のことであった。
これよりいよいよ小説のことひろく成してんのこころ構えから、この人の手あらば一しほしかるべしと母娘の相談で、うちたえていた半井桃水の許をも訪ねた。
中島歌子から、萩の舎号をゆずって死後のことを頼むべき人は門下の中にあなたしかないからという話があった。それも一葉としては「思ひまうけたる事」であり、もう先のように萩の舎の空気や師匠歌子のとかく噂ある生活ぶりへの潔癖をすてて、自分としても歌道のためにつくしたい心願だから、「此道にすゝむべき順序を得させ給はらばうれし」と月々報酬をもらって手伝いに通うことにきめた。「変化運用の妙」に立ち「一道を持て世にたゝんとする」生活の第一歩がこのようにして始められたのである。
金銭上の不自由はやっぱりつきまといながらもこの時代から、一葉の生活は方針のたった日々の落着きが、日記をみてもまざまざとあらわれて来ている。桃水に対して経た感情の幾風波も、おさえれば却ってたぎるようなものだろう、悟道を共々にして兄の如く妹の如く、世人の見もしらざる潔白清浄なる行いして一生を送らばやという境地に達した。
この年『文学界』に連載された「やみ夜」は、おそろしき涙の後の女心の、凄艷な恨にかたまったお蘭と
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