ントにふれて来ている。一九三三年に、プロレタリア文学が壊滅させられて、文学が急速に萎縮の道を辿りはじめた時、荷風の「ひかげの花」が発表された。そのとき、文学の発展的方向も定かでなくなった文壇[#「文壇」に傍点]は、「ひかげの花」をどんなに珍重したろう。称讚しないものは、文学を知らないものであるという風に、その「叩きこんだ芸のうまさ」を欣仰した。けれども、人間の自然として、やがて芸道讚[#「芸道讚」に傍点]そのものに疑問がもたれはじめた。そして、荷風の芸術の世界が、現実へ働きかける人間の意欲を反映していないことに不満がもたれて、能動精神というフランス渡来の主張が伝えられるようになった。
一九四六年にめぐりあった荷風の役割も、このくりかえしであった。ともかく芸術らしさのある作品で、高く低い様々の読者層の興味をひく作品、そしてその作者が戦争協力者でないことの確実な作家。――そして荷風が登場したのであった。
作品として見たとき、戦争は間接に荷風の芸術にも作用したことが感じられた。荷風が戦争から無関係らしいところに自身を置くことが出来た、というそのことは、日本じゅうの人々の痛苦から荷風は無関係であったこと、日本じゅうの不如意、空腹、涙から荷風は離れた人であることを犇々と感じさせた。「ひかげの花」の作者が十何年かの年を重ねたというだけではない、自分だけの生きかたをするものの枯渇が、荷風のデカダンスそのものを老衰させ、艷のぬけ、意力の欠けたものとしていることが発見されたのであった。
荷風によって代表されるジャーナリズムの老大家尊重の風は、深い意味を暗示している。ジャーナリズムの事大主義が依然としてどんなにつよいかということと、それを可能にする日本の社会と文化の保守的な要素が、どんなにつよく日本に存在しているか、ということである。この日本の保守勢力温存の傾向は、政府の構成から憲法の民主的改正にふくまれた巨大な矛盾の本質までを一貫している。
荷風の氾濫に対して、近代の人民生活のこころと歴史を物語る民主的文学を要求する声がおこった。それと並んで、その文学系列においてみれば荷風のエピゴーネンとも云うべき人々が、荷風のデカダンス世界の封建性に反撥しながら、そのデカダンスにおいては荷風よりもっと人間性、知性をぬき去って、性器に全存在の意識をまかせたような、デカダンス文学、エロティシズム文学をもって出場して来た。織田作之助、舟橋聖一、その他の作家の作品は、果して、文学というものの領域に入り得るかどうかという程度のもので現れた。同時に、文化の面における戦争協力の追及が、政府の保守、温存主義につれて緩漫なのがわかって来ると、はじめ、ジャーナリズムも本人たちも気配をうかがっていた躊躇をすてて、種々の作家が段々そのまま、再び活動を開始した。一寸挨拶に手拭をくばる、という風に、その作品の中に真実の浅い、思いつきの自己批判の数行を加えながら。
紙の不足と新円の問題とは、ジャーナリズムと作家とを、ある意味では恥知らずとした。営利を主眼とするジャーナリズムはそれでよいとして、作家自身の問題とし、日本の文学の課題とし、この既成作家の殆ど全部隊が、血によごされたペンのまま、いかにも自主性の不足な日本の文学者らしく、お互にはあのときのことはあのときのこととしましょう、という風に今日動いていることは、何を意味しているだろう。それは十二年間に殺された現代文学の亡霊の登場にすぎない。文学精神の精髄において、社会と人間の真実を追求しようとするその精髄を喪った影の、彷徨にすぎない。これから文学に出発しようとする若い世代は、これらの亡霊的な影に、執拗に、巧妙に絡まりつかれないように自分を育てることが肝要である。
作家の出版企業家風な動きは、株式会社鎌倉文庫に顕著であり、『婦人文庫』の中心的な一、二の婦人作家にも見られる。新円は彼等、彼女等を賢くして、利潤の再生産ということを理解させつつある。
一方に、戦争の永い間、理性を封鎖されて暮した青年の間に、民主主義という、近代の社会政治の形態と本質との理解がのみこめず、暴圧の期間に蒙った精神の傷痕に拘泥してしか、社会と個性の発展を考えられない不幸な一握りの人々もある。
文学の展望は、このように錯雑し、穢物に充ちてもいる。しかし、刻々に動く歴史の営みは偽りなくて、今日の紛乱と矛盾の下から、新しい日本の文学の、若く、愛すべき息づきが聴かれはじめた。『黄蜂』に「暗い絵」を連載している野間宏、『新日本文学』に「町工場」を発表した小沢清、『世界』に「年々歳々」を書いた阿川弘之。これらのまだ試作中と云える新人たちは、進歩的な知識人として、又勤労者として、既成の作家たちとは、全く異った素質に立って文学に歩み出している。たとえば「町工場」は、プロレタリア文学運動のあった十数年このかた、抑圧されながら根づよく保たれていた進歩的な勤労階級の生活感情に立って、ふっくりとした人間性と、理性の明るさによる気品をもったリアリズムをもって出現している。「暗い絵」のはりつめた神経と自己の追究とは、まだ良心の時代的な過敏さから病的に緊張されているが、その知識人の発展を辿る文学は、決して島木健作の現実糊塗に立った誠実へのポーズでもなければ、小林秀雄の、逆説にもなり得ない饒舌でもない。「私」にあくまで執しつつ、その「私」は歴史の背景の前に社会的な存在として作者に把握され、一箇の「私」は、一定の日本の歴史的な時期における数万の「私」となろうとする可能を示している。旧来の「私」小説からのより社会的な展開の一つの方向がくみとられるのである。
一九四五年八月から今日まで、十六ヵ月余りたつうちに、文学の荒廃のあとから、腐敗する古いものの醗酵のきつい臭いにつれて、青く、小さく、新しく萌え立ち初めた芽がある。その数はまだ少い。けれども、それは生のしるしであり、新しい種の兆候である。
婦人作家は、こういう錯綜の間に、どういう活動を示して来ているのであろうか。
中国への侵略戦争がはじめられて間もなく、左翼運動の理由で検挙され、警察で重体に陥って久しい間病臥にいた平林たい子は、一九四六年の二月の『中央公論』に「終戦日誌」を、『文芸春秋』別冊に「一人行く」を、そして秋には「こういう女」を発表した。
「終戦日誌」は信州に疎開していて八月十五日に遭遇した作者の生活と周囲の状況を記録したもので、それは、本当に日誌の整理されたものであろう。従って芸術作品とすれば未完成というより素材的なものである。信州のその一つの村の中で、軍関係にあった人が、どんなにあわてて、貯金通帳までを焼きすてたか。どんなに流言がとび、どんなに人々が、「誰がかえったかよりも何を貰って来たかに興がった」という現実が記録されている。深夜に急に還って来た弟の素振りの腑におちなさ「あゝわが弟、数年間なる軍隊生活にて何を覚えしにや、悟りしにや」「瘠せて目が落ち、疲れたる寝顔は、我が弟の顔にはあらで『現代日本青年』という題の塑像なり。終戦以来、前途に燃ゆる火ばかり見つめて来りし自分は、ガタリと今石に躓きたる思いがする。足許は暗し、暗し。彼方は明し。」こんな時勢に、真面目に固いことばかりやっていられるか、という弟に対して思わず激しく云い争うが、遂に黙ってそこに転がり、いつか微かな寝息を立てている弟の顔を見下して、作者の胸に湧き立った感慨は、読者をうつ真実性をもっている。「終戦日誌」は小説に描かれるべきたくさんの、当時らしい典型的な光景と人事にみちた一冊のスケッチ帳の趣をもっている。
久しぶりで検閲をおそれず思うとおりにものが書ける。この激しい歓びは、作者の歓びと雀躍とが大きければ大きいほど、却って作者を舌たらずにし、感動に溺れさせる。「一人行く」の作品としての未熟さは、この作者が、「この世に生きて、苦しんでもがいた印をのこさずに死なれようか」と思いつめて、久しい間の病と闘い抑圧とたたかって来た今日、生けるしるしと作品に向った、その亢奮から結果している。
作中の主人公私の、病的な亢奮と、作者の気分の高揚とが縺れあって、主観的になりすぎた。しかし、警察から出て、もう帰れない自分の家を電車の上から眺めながらお花さんの家へ行ってからの描写は迫真力をもっている。
「こういう女」は、素材としては「一人行く」とつながりながら、事件としてはその前におこった作者の経験を中心とした作品である。左翼の運動をしている良人が、原因のはっきりしない嫌疑で、くりかえし検挙され、三度目には逃亡した。その身代りに警察にとめられた妻である私が、その逃亡に加担していたばかりでなく、その警察の特高部長が職責上、逃亡を胡魔化そうとした、それにも参画しているというので益々虐待されながら拘留されている。逃亡した良人は、やがて十五日めに自首して来る。「私が捕えられたと知っては、必ず彼がそうするだろうことを私は前から信じていた。またそうも云った。『己惚れてやがる。この女《あま》め』と殴られたこともあったが、やっぱり、私が手綱を握っていることは、たしかだった」そして、「良人が出て来ずにはすまなかった口惜しさと安堵とで、思うさま泣けた」作者のこころもちで終っている。
日本の治安維持法のひどさは、言語に絶していた。その犠牲の広汎であることは、戦争の犠牲の広汎なのと匹敵した。日本の文学は戦争と治安維持法のために、旧い野蛮な絶対制の権力のために、蹂躙されつくした。今日において、きのうの日本の社会と文化を語る文学作品として、寧ろ、この歴史的時期が真剣にとりあげられなさすぎるのは、奇異な心持さえする。作者たちは、そのようにも自分たちの人生を挫き、存在の意味を失わせた暴力が何だかということを自覚さえしないで生きて来ているのだろうか。無事に作家として生存して来たと思ってでもいるのであろうか。
平林たい子が、戦時中逆境にいて生死の経験をし、これらの作品に、今は話せるその物語をとりあげたことは一つの業績としなければならない。「一人行く」よりも、「こういう女」は小説に馴れ、自分の声を自分できくことに馴れ始めた作者の筆致がある。
「こういう女」という題は、私はこういう女です、というよりも、もっとひろく、こういう女もきのうときょうとの日本の歴史の中には生きている、という作者の心もちではなかろうか。そうだとすれば、作者がこういう女に予期しているのは婦人の一つのタイプであるということになる。そのタイプとして描き出すには、客観性が不足した。運動をしているとだけかかれている「夫」には、読者にはっきりしたイメージを与えるよすがとしての名も与えられていないし、運動の性質、逃亡の必然、自首の必然も描かれていない。仮にも左翼の運動をして、妻がそれを誇りとするほど矜持をもつ人であるというならば、自首ということの敗北的な屈辱の意味も十分知っている筈である。逃亡が必然であるような背景があるならば、妻が「そとへ出られないとわかってからは、一人でさまよっているであろう彼」となって、自首したりするはずはない。そうだとすれば、逃亡に必然性がなかったと見るべきなのだろうか。必然の明瞭でない逃亡は、作品の中では「今度こそひどいし、それに余りばか/\しい犠牲だから、かくれて様子を見ることにしようかと思うんだ」という夫の言葉の範囲でしか表現されていない。この作品の主人公である妻たる「私」は、一種独特なその性格を横溢させつつ良人を深く愛しているのである。けれども、この小説が、権力との抗争を背景とするものとしてかかれている以上、この勇敢な、「丈夫で使い崩れのしない」妻「私はこの検挙以来、断じて支配者とは妥協の道のないことを、肝に銘じて確信した」(一人行く)その妻が、身代りに自分がつかまったと知ったら必ず自首する良人として、良人を確信し、それを自分たちの愛の証左のように感じているものとして描き出されている点は、読者を居心地わるく、ばつのわるい思いにする。そういう夫妻であるからには、良人の身代りに妻がいためつけられることはわかって
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