いたろう。それこそ、治安維持法そのものの残虐な本質であった。階級人である夫婦にそれがわかっていない筈はない。階級的な立場で運動をし、あの時代に逃亡を思うほどの人ならば、妻一人がその身のかばいてであるという大衆との組織のない関係も不審に思えよう。
「こういう女」の作者が、これらの点に客観の目をむけ得なかったことは、一つにはこの作者の生活がまだ勤労階級の前衛としての立場まで歩み出して来ていない現実の限界を示している。又、この作品は、この作者に将来の作品のテーマも作品自身の中から提出している。「一人の人間の性格は他人から見える面だけで構成されていないように、自分から見える面だけでも構成されていないことを」痛感した私という一人の女性について、作者はたくさんの展開のモメントを「こういう女」の中に示した。その女性が「堅牢でがっしりした器物のように」堅牢な自分であると思いつつ、一方で、過ぎさった青春が、湯水のように使われたと感じ、浮々した跳躍をたのしんでいたのに、はじめての如くに現実の硬さ痛さにぶつかったと歎き、その原因は主として、警察での病苦から、財産の無い自分たちに思い到り、この辛《から》い世の中に、養老院だの施療院だのという映画のセットのような実用にならぬものを当にして、見るべきものに目をつぶり、聞くべきものに耳を塞いで自分の歌ばかり歌って来た「家計簿の頁をくる代りに『国家、家族私有財産の起源』の頁を繰っていた視角からは、老後とか病時とかいう停滞の日は思うことも出来ない程生活は激しい流と見えた」ことへの反省であった。「財産――」一旦足蹴にして来たその地点に廻れ右しなければならなくなった「私」、その「私」に熱愛される「夫」である「彼も四十となり、情熱や感激に乗ってことをなす時は過ぎかかって、後半生は何に力を注ぐべきかを改めて思う年頃となった」(一人行く)
「こういう女」と「一人行く」との中には、このように意味深い人生過程の閃きが、いくところにかチラついている。日本の民主化の動き、そこにたぎる偽りのない熱意は、この作者にとって、微妙なそれらの諸点と、どういう角度で結ばれてゆくものであろうか。粘りづよい体温のたかいこの作者が、自由に作品の書けてゆく数にしたがってリアリスティックな客観性を深めひろめて、「こういう女」の蔵している真面目な諸モメントを社会的な視野で展開し、描き出して行ったとき、彼女の「施療室にて」が文学としてもった新しい意味は貫徹されるのである。
窪川稲子は、佐多稲子となった。この一つのことに、文学以前の婦人として、母としてのこの作家の未だ語らない幾多の思いがある筈である。彼女一人の思いとしてばかりではなく、「くれない」の女主人公の、後日につづく思いとして。よく生きようと努力しつづけているすべての女の思いとして。
自分というものに与えられた人間的可能を伸ばしひろげようとする熱心に燃え、女の消極を克服することに精魂を傾けて来た彼女は、連続した「私の東京地図」を第四回発表している。四回まで扱われた地域は、「キャラメル工場から」「ストライキと女店員」その他この作家の自伝的な作品に描かれた生活の背景となったところどころである。「私の東京地図」で、作者は、今日の日本の社会と今日の自身の生活と、このかつてのたたかいの跡である地域の思い出とを、明日へのどういう能動の方向で結び合わせようとしているのだろう。これまでの作品に描かれた下町、池の端、日本橋それらはどれも、そこにくりひろげられている発展のない小市民の環境とその中から脱出しようともがく若い女性の苦悩の場面として、捉えられていた。名所図絵風に、そこで有名であった老舗のかんばんや風俗をなつかしむ対象ではなくて、それらの風景にも若い女の心の苦しさで挑む風物として作者に存在した。久保田万太郎ではないこの作者が、女および作家としてなみなみでない過程を経て到達した今日という日、稚く浄い「キャラメル工場から」が、又新しく出版されてゆく今日という時代の動きの中で、よもや、己れの純真な生のたたかいのたたかわれた場所場所を、名所図絵として描き終ろうとするのではないだろう。やがて、描こうとするテーマが、作者にとって、その女の心に、その人間としての心に余り重く、痛ましくあるから、そのために、かえって作者は、遠くから、ゆっくり、その部分へ近づいてゆこうとしているのかもしれない。けれども、作者も読者も、この寸刻をゆるさず前進する情勢のうちに生きていて、特にこの作者は、急速に、戦争中の自身の奴隷の言葉を、作品によって、自身と人々の精神のうちに訂正しなければならない責任がある。「女作者」のうちに云われているとおり、逆用された文学の善意をしっかりわが手にとり戻して、この作者の文学のうちに自分たちの善意と人間意欲の手がかりを見出そうとして来たすべての人々の善意を、正当な位置と見とおしとにおき直す必要がある。そして、それは、作者の内心に期されている将来への確信やそこに到達する自分としての好みに合うテンポの如何にかかわらず、既に今日、激しく求められているものである。主観的な善意にたよる文学上の危険が、ここに、逆な形で作用することが警戒されてよかろうと思われる。「キャラメル工場から」そして「施療室にて」などが、民主日本の人民の文学の歴史に再び見直されるのは、その作者たちをふくめる日本の民衆が、どこまで遠く歩いて来たか、かえりみてなつかしい昔の道標としての意味なのである。
過去十二年の間に、抑圧によって、僅か三年九ヵ月しか執筆発表期間をもち得なかった宮本百合子は、「播州平野」「風知草」などを発表した。
一時、作品の世界も混乱して見えた松田解子は、未発表の長篇を完成させるに程近い。野上彌生子は、軽井沢に疎開生活を送りながら、この作者らしい勤勉さで、最近「狐」「神様」と、譬喩めいた題の作品を発表した。身辺的な限られた別荘村疎開生活者のあれこれであるが、そういう傍観的な環境の中にさえ、時代の変動は様々の形で反映する。その姿と、作者のこれまで黙させられていた平和的な自由市民であることを欲する感覚が、綯《な》い合わされて表現されている。「狐」の若い主人公たちの有閑者としての境遇の変化の偶然性と、元海軍中将であった人の境遇の変化とが、偶然性の上に一致して、同時にテーマの解決ともなっているところは、この作者になじみ深い読者の注目をひかずにいない。「真知子」でも、この作者は、真知子が世俗的に不幸にもならず、経済的不安もなく、その上、良心の満足もあって落着ける条件を、客観的には安易な他動的な偶然の上に発見したのであった。新しい日本の社会の空気と、それが作家に可能にしはじめた数々の偶然のより意味ある必然への転化は、この作者のリアリズムをどのように解放し、発展させるだろう。所謂女らしくなさやアカデミックなことでこの作者をきらっていた幾人かの男の作家たちが、文学そのものを破滅させた激しい現実をとおして、日本の婦人作家たちが、六十歳でなお休息しようとはしていない一人の先輩をもつようになったということは、意味ないことではない。
一九四六年四月の『世界』に発表された網野菊の「憑きもの」は、ごく短い小説であり、当時格別の批評もなかった。しかし、二十年ばかりの間、この作者が真面目に、苦しみ多く、しかも内輪にかきつづけて来た作品の世界を知っている読者は、この「憑きもの」一篇をよみ終ったとき、しずかな涙が湧くのを覚えたろうと思う。処女作品集『秋』から『光子』『妻たち』『汽車の中で』『若い日』その他重ねられている網野菊の人生の図絵は「憑きもの」に要約して語られているとおり、日本の下町の複雑な家庭のいきさつとその中での女、娘の生きて来た姿であり、更に、大学を出て、哲学をやっても妻というものに対してはおどろくばかり旧い常識に立っていた良人との生活、その破綻の図絵であった。しきたりのうちに育って、自分もそのしきたりに縛られているところもありながら、人間らしさで、人生の大半をそこにある不条理に苦しみつづけた作品の世界であった。作者は、これまでそのいきさつの中で揉まれ、こづかれ、傷けられる女主人公の姿を追って、克明に描きつづけて来たが、決して、客観的に問題を展開して来なかった。日本の社会における婦人の問題、家の問題として構成してはとりあげず、芸術によって常識とたたかうことをして来ていなかった。そのために、この作者の作品は、地味な玉縫いの縫いつぶしのような効果で、一つ一つ見れば、「妻たち」にしても、心のうたれる作品であるのに、芸術として何か一つの力、何か一つのバネが欠けている感じを常に与えた。女主人公の境遇と心境の外へ作者は出られなかった。女主人公を芸術の世界で奮起させ、積極的にテーマを展開させる、そういう張りが不足していた。
「憑きもの」をよんだとき、この作者を知り、評価しているものの眼に泛ぶ涙は、ヒロと一緒にホッとして、一つの新しい境地に出て来られた作者への慶賀の涙である。
この作者らしく「憑きもの」も沈んだ筆致で、最後の文章は「拍子ぬけの気持も感じるのであった」とかかれている。が、この作者が、「若し、ヒロが生れた時から既に日本の妻が夫と対等の身分でいたものであったら、ヒロも実母も一生の間の苦労は二人がすごしたものとは違ったものになっていたであろうに……。ヒロの子供時代の悲しみもなくてすみ、人生観も変っていたかもしれない……。」「敗戦は日本の婦人達に参政権を贈った。『女も哀れでなくなる時が来た』とヒロは思った」と書いているのをよむと、これまでの苦しい小説の世界から、今はこの作者も歩み出せた、と思うのである。そして、あの幾冊もの小説がかかれた生活経験の上に立つからこそ、こんなに素直に、こんなにまともに、民主的な日本になってゆこうとする社会の可能を迎えている作者の心の真実をいとしく思うのである。どっさりの小説を書いては来ているが、この作者が、その作品の中で「憑きもの」の終り四行に書かれたような表現で、社会の歴史と自分の人生とを照し合わせたのは、恐らくこれが最初のことではないだろうか。
「憑きもの」は網野菊という一人の婦人作家にとって、記念すべき作品であるばかりでなく、日本の大多数の婦人が、封建性を否定する情勢の動きによって、自分たちの運命に重く憑いていたものが何であるかを知りはじめた、その真面目で、率直な記念とも云える作品であると思う。そういう意味では、他のどの婦人作家も書かなかった意義をこめた作品であった。「谷間の店」の大谷藤子、「諸国の天女」その他の詩から、はじめて「帽子と下駄」で小説にうつった永瀬清子、「女一人」の芝木好子、「彌撒」を書いた阿部光子、その他の婦人作家たちの生活と文学も、これからの日本の動きの中では、精力的につよめられ、豊富にされ、のびやかにされてゆく条件も見出せよう。遠い雪山の稜角が日光に閃くような趣の北畠八穂の文学は、素木しづ子の短篇が近代化された姿で思いかえされる。
『新日本文学』の作品コンクールは「死なない蛸」の作者譲原昌子と、「靴音」の作者高山麦子をおくり出した。
『婦人文庫』という雑誌が女流作家の特輯を出したりしているのを見て、心をうたれる思いがある。それはこういう場面に執着している何人かの婦人作家たちは、ジャーナリスティックな意味では、新進であろうのに大変書き馴れていて、その大さなりに殆ど爛熟してしまっている点である。単に筆の上だけでない爛熟が感じられる。どこで、いつの間に、こうして、婦人の生活と文筆の才能とは、頽れるばかりのものとされて来ていたのだろう。
日本の女として、これまでに負わされて来た名状しがたいほどの苦痛と負担とは、一人一人の婦人作家についてみれば、誰一人として、そこから自由であったものはない。それぞれの形で、その人その人の角度で、みんな苦しく切なく生きて来ている。数百万の婦人たちと同様に。その苦しみは、婦人作家によって最も切実に描かれ、訴えられ、慰藉を与えられる筈だと考えるのは自然でないだろうか。すべ
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