て肯定することに終っている。
その作品さえも、情報局は、戦争反対の嫌疑で発禁した。思考力を失ってゆく過程とその承認さえ、なおそれは、人間には思考力が在るという現実を思いおこさせる刺戟となることを、軍部はきらったのであったろう。「生きている兵隊」における作者石川達三の失敗と放棄とは、決して彼一人の問題ではなかった。作品において、作家はテーマを失ったばかりでなく、それ以前に、文学を失った。
一九三七年七月、蘆溝橋ではじめられた日本の中国に対する侵略戦争は、忽ち、林房雄、尾崎士郎という人々を報道員として北支や上海にひき出した。岸田国士もゆき、島木健作も満州へ行って武装移民団視察を行った。「農民文学懇話会」の人々が、拓務省・農林省と一緒に「大陸開拓文芸懇話会」をつくり、「文芸家協会」「日本ペンクラブ」「日本女流文学者会」などは、軍部と検事局思想部の統制のもとに「文学報国会」となって、全く文学を軍事的な目的に屈従させてしまった。これらの組織だてのために大いに斡旋した人が、菊池寛、久米正雄、中村武羅夫等であり、中心的な指導者は、翼賛会の文化部長となった岸田国士、高橋健二、上泉秀信、今日出海等の人々であった。かつて、プロレタリア文学理論が、文学のもつ社会性、階級性について語ったとき、力をつくしてそれに反対し、芸術至上の「純芸術性」を護ると称した人々が、一九四〇年代には自ら文学殺戮の先頭に立ったということは、記憶されるべき事実であった。
同時に、国内の挙国的思想統制と並んで、保田与重郎、亀井勝一郎、檀一雄等の日本浪漫派の人々が、林房雄、中河与一、等と共に、「日本精神」戦争の謳歌を引き出す日本の「神ながらの道」たる絶対主義と天皇制の支配と伝統とを讚美した。ナチス文化とイタリー・ファシズムの宣伝も強力に行われて、日本の女詩人深尾須磨子はイタリーに行ってムッソリーニに会い、ファシズム謳歌の文筆活動を盛んに行った。軍御用の文学と、日本精神誇示の文学、軍と検事局はそれだけをみとめた。
一九三八年の秋二十二名の文学者が陸海軍から「ペン部隊」として出かけ吉屋信子、林芙美子もいろいろの報告をかいた。林芙美子の「北岸部隊」は漢口一番のり、という風な戦時的センセーションを背景として発表されたのであった。
一九三九年に、多くの婦人作家たちがその健筆と活動慾とを認められたということは、こういう時期に決してただではすまないことを意味した。戦争の強行に女子の勤労動員が益々大量になり、家庭を破壊された妻、母たちの生活不安が増大し、それは必然に前線の兵士たちの不安となって戦争を懐疑させようとするとき、故国から、よく感動も表現しそれをつたえる筆をもつ婦人作家たちを、前線慰問にやることは、軍部として最も近代的な文化性[#「文化性」に傍点]の発揮であったのだろう。軍は、女子勤労動員の一つの形として婦人作家たちを動員した。個人的な理由ではことわりにくいように動員した。婦人作家たちにとっては、その動員をうけるということが一つの存在保証であったし、男の作家の多くの人がそう考えたように、前線の経験は作家としての自分を豊富にするとも考えられた。日本の封鎖された社会生活、経済生活の貧困さは、こういう機会をさえ、自分の文学の発展の希望と結びつけて考えさせることとなったのであった。
一九四一年(昭和十六年)十二月八日に太平洋戦争を開始すると、日本の権力者たちは全く狂気の状態になって、全国の社会主義者、平和主義者と思われる評論家、作者、歌人までを逮捕投獄した。婦人作家ではその年の初めから作品発表を禁止されていた宮本百合子が捕えられ、投獄された。そして、一方には、益々婦人を重労働に動員しつつ婦人作家たちに海をわたらせ、南方の諸島だの、ビルマだのへやった。『主婦之友』がその雑誌の一頁ごとに、「米鬼を殺せ」と印刷し、往年の婦人参政権運動者たちは報国貯金、戦時国債の勧誘に全国を遊説し、すべての学校は学徒勤労、学徒動員で半ば閉鎖されているとき、婦人作家たちは何かの婦人代表のようにきおい立たされて、派遣されて行った。
窪川稲子のような婦人作家までも、その動員に応じなければならなかったことは、一部の人々に意外の思いをさせた。「キャラメル工場から」を書いた窪川稲子、「くれない」を書いた窪川稲子が、侵略戦争のために協力するということは会得出来ないことであったから。一九四六年六月の『評論』に発表された「女作者」という短篇の一節が、この時代のこの作者の心もちを語っている。「戦争に対する認識は、多枝の抱いていた考えのうちで変ってはいないのに、隠れ蓑を着ているつもりの感情が、隠れ蓑を着たまゝ戦争の実地も見て来てやれ、と思わせ、また、兵隊や兵隊をおくった家族の女の感情にもひきずられて、その女の感情で」中国へも立って行った、と。だが「女とは云え、それなりの作家根性でもうそれより先には日本の陣地はないというところまで進んで行った」心持は、林芙美子に漢口一番のりをさせた女ながらも[#「女ながらも」に傍点]と、どのように本質のちがったものであり得たろうか。
時の経たいま、そのときをふりかえれば、「女作者」の作者が告白しているとおりの現実でもあった。「隠れ蓑を着たつもりのまんまで、自己を失ったことに気づかず、軍指揮者の要求を果したのである。そして自分では、はっきりとこの目で日本の戦争の実相を見てきた、と思っていたのである。多枝の見て来たと思う実相は、日本の侵略戦争が中国側のねばりで、たじ/\である、ということだったのである。そして、女の感情で、兵隊の労苦を憤る前に、泣いたのである」「多枝たちの泣いて語る話が、手頃に必要だったのである」しかし、「女と云え、それなりの作家根性」が、現実の文筆にどう表現されただろう。第一、婦人作家があれだけ多数、のべ時間にしてあれだけ長期、各地に派遣されたのに、文学作品として小説は一つも創造され得なかった。このことは、現実がこれらの婦人作家たちを圧倒していたことを直截に物語っている。報告文学が書かれたが、その場合でさえ、森田たまのように、自分[#「自分」に傍点]が前線でどんなにもてなされたかということを語るに急な例さえもあった。内地から来る彼女のために、タンスをそなえつけようとして間に合わなかったと云われたという風に。第二に、報告風の文章でさえも、「兵隊さん」に対する一種独特な感傷と、指揮者に対する信じられないような服従の表現がつかわれていて、敬語と下手の物云いとが、すべての婦人作家の報告的文章にあふれている。「おめにかゝる」何々して「いられる」その指揮者の「お子さんがた」「御自身の口から」云々。婦人作家自身、女ながらもと飛行機にのり、弾丸の来るところへ出てゆく、その行動と、文筆の表現の上に目立つ特別に封建風な敬語の矛盾は、当時の情報局が、そうさせたという限りのものなのだろうか。日本の女性は、いつも二重の重荷を負わされて来ている、働く女として、同時に古い女として[#「女として」に傍点]の約束によって。いつも上官の前では小腰をかがめているこれらの婦人作家の前線報道は、そういう環境で「日本の女」というものに対して何が期待されていたか、推測するにかたくないように思える。
「女性たちも、今後は心と目とを内地からもっと拡げて、一人一人が一騎うちの覚悟で立てるつもりにならなければならないのではなかろうか」当時の窪川稲子の文章にこう云われている。そういう覚悟を文学のこととしたなら、どういうことになるのだろう。『続女性の言葉』というその一巻の中に「満州の少女工」という短文がある。満州の不具の小さい女の子ばかり集めて「満蒙毛織」会社は生産に必要な消耗品である、古新聞再生をやらせている、そこの見物記である。「十歳から十二三歳位の少女たちが、内職をやるあの手早い動作で、古新聞を捲いている。」「その動作はきび/\としている。その手つき、肩のふりかたに、私は気を張った日本のおかみさんの姿を思い出すのであった。一分でも無駄に出来ないというあの気のはりかたである。手の動作はもう機械のようになっている。それが細かな仕事だけに子供らしさが消えている。手の動作を速くするために、腰から上をふって、目を据えている。」読者は、それが同じ作者によって観られている光景であるということから「キャラメル工場から」を思い出さずにはいられない。十三歳のひろ子は、キャラメル工場で、やっぱり、目を据えて、体をふり、寸刻も手をやすめず働く女工たちと生活した。彼女もそうやって少女の肩をはり目をすえて働かねばならなかった。そうして少女たちをこきつかうこと、ましてやすい不具の少女たちを働かせる社長の才覚が、「そして、もっとおもしろいことは、びっこの子供などをこの仕事につかっていることだった」という風に、作者の観察の本質を理解させないほどの奴隷の言葉で表現されなければならないとき、作家の性根というものは、どういう場所におかれていたのだろう。
新四軍から日本軍に捕えられて働かされている若い女性をこの作者が好意的に描こうとしても、唯若い女の少女っぽい美しさ、可愛らしさとしてしか語れず、僅に、その娘が、今の境遇について「明らさまには申上げられません」と答えた、そのすばしこさに微笑するという位にしかかけないとき、しかもすべて読者は、書かれた範囲で読むしかないものであるとき、文学としての客観的な真実は作者の主観がどうであるにかかわらず、真実として保ち得なかったのであった。
網野菊が、ジャーナリズムから派遣されて初めの頃満州へ行ったが、その文筆のもち味が、必要なアッピールをもたないという理由からか、その後は却って動員をうけなくてすんだという、笑えない笑い話さえ聞かれた。
一九四五年八月十五日が来た。その年の五月までに民主国家の連合軍によってヨーロッパでナチズムは崩壊し、ファシズムもくずされた。日本の軍事的な天皇支配の権力は、はじめて数年間に及んだ偽りの勝利の面をぬいで、無条件降服した。ポツダム宣言を受諾して、封建的な絶対制をやめること、日本民主化の契約を世界の前にうけ入れたのであった。
二十年の間、日本の大衆の思考力、自由な発言従って自主的な判断を縛り、その生活と思想との近代的な発展を阻んで来た治安維持法は撤廃され、言論と出版と結社の自由とが戻って来た。文学も、よみがえるときが来た。奴隷の言葉、奴隷の習慣が、文学からぬぐいとられるときになった。民主主義文学の翹望は、日本の全社会の生活の進もうとする方向を反映する性質をもっておこって来たのであった。日本の文学の無慚な廃墟のなかに、謂わば下ゆく水とでもいうように、細く、しかし脈々とつづいていた民主的な文学の溪流が、岩の下からせせらぎ出た。「新日本文学会」は、一九四五年の十二月おしつまって結成の大会をもった。
一九四六年一月は、久しぶりで、いくつかの雑誌が再発足をして、文学のための場所も設けられたのであったが、人々が何となくおどろきを感じたことは、先ず永井荷風が、このジャーナリズム再開の花形として登場したことである。荷風の「浮沈」「踊子」「問わずがたり」などが、天下の至宝のように仰々しく掲載された。ひきつづき、正宗白鳥、志賀直哉、宇野浩二などの作品も現れた。一九四六年の初めの三分の一期は、こういう現象が非常に目立った。
中堅と云われる年配の作家たちは、殆ど全部、前線報道の執筆をして来ていたし、治安維持法が撤廃されたからと云って急に擡頭する民主的な新進もあり得ない。戦争にかかわる年齢は幸にすぎていて、経済の安定も保ちとおし、自分の文学をいくらか書きためることの出来ていた荷風が、無傷な、そして営業的に広汎な読者をもつ作家として着目されたのであった。この着目は、戦時中、とくにその後半期に、当時の文学の荒廃につかれた文学愛好者の間に、荷風の古い作品である「腕くらべ」「おかめ笹」などが再び愛読されていた、その機微をとらえたものでもあった。
思えば、荷風という作家は、彼独特のめぐり合わせで、日本の歴史的モメ
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