輪を段々ひろげて、例えば「大石良雄」という作品においては、封建的な観念が忠義を典型とする良雄の復讐という行動の動機を、経済の問題において観察する試みも企てた。
真知子に到って、この作者の投げる輪は格段と拡がったのであるけれど、投げ輪の行く手を稠密に観察する読者は、投げられた輪がかなりのひろさに円を描いて社会の事情にふれてゆきながら、その輪はいつも一筋の常識の綱につながれていてやがて落ちついたところは、常に一定の安定した平面の上であることを見出しはしないだろうか。そして、そこに作者の人生態度の動きの原則めいたものを発見するのではないだろうか。一つの文学作品の全過程が、こまかく辿られた窮極において、その主人公と作者とが初めに出発した生活的地点の肯定に帰着するという創作の道ゆきは、注目されるべきところである。「真知子」は、一本の鉛筆で、ひろく大きく輪をかいたが、終りは、描き出しの第一点へ帰って来ている、という作品である。
一九二七年の冬からモスクワに暮していた中條百合子は、この頃から、「モスクワ印象記」その他の見聞記を日本の雑誌にのせはじめていた。一九三〇年の暮れ帰国して、三一年に、プロレタリア作家のグループに所属した。
九、人間の像
一九三四―一九三七(昭和九年以後)
既に一九三一年(昭和六年)満州事変と云われた満州侵略戦争がはじまっていた。一九三二年三月の下旬に行われたプロレタリア文化団体に対する全国的な検挙は、この戦争と決して無関係でなかった。プロレタリア文化団体は、帝国主義の時期に入った日本の侵略戦争が、大衆の不幸であり、特に婦人の涙の谷であることを主張して来ていた。戦争に反対するすべての思想、作品、行為は政府の邪魔として弾圧され、一九三三年四年の初めまでにプロレタリア作家同盟も、演劇も科学者のグループも短歌と人生俳句のグループさえも解散しなければならなかった。大量に、そして長い期間に亙って、プロレタリア文学運動に参加していた婦人作家が男の仲間と同じように拘禁生活におかれた。小林多喜二が一九三三年二月二十日、築地署で拷問によって虐殺された事件は、文化の上に吹きすさんだ嵐の血なまぐさい惨虐の頂点をなした。
非常に広い範囲で愛読者をもっていた小林の死を知って、組織的な関係はちっともない夫人やよその若い娘というような人々が弔問に来た。が、その人々は、小林の家をとりまいていた杉並警察署のものにつかまえられて、留置場へ入れられた。葬儀さえ、友人たちの手によってはさせられなかった。そのとき、友人代表として世話をした古い仲間江口渙は、あとで検挙されたとき、小林の葬儀委員長をしたことについて、咎められるという有様であった。窪川稲子が、当時新聞に書いた「二月二十日のあと」という短い文章は、仲間たちの憤りと悲しみと、小林の老いた母の歎きの姿を描き出して、感動ふかいものである。
プロレタリア文学の運動は、こうして破壊され、数年来、この文学運動に反対して闘って来た一部の作家たちは、ひそかな勝利の感情を味ったかもしれない。しかし、日本の文学全体を展望したとき、プロレタリア文学がそういう過程で壊滅させられた事実は、文学にとってきわめて不吉な前兆となった。倒されたのは、プロレタリア文学ばかりではなかったのであったから。日本のおくれた近代性のなかで、ともかく世界的水準を目ざしつつ、日本文学そのものの客観的進展に努めて来ていたのは、プロレタリア文学運動であった。日本の人民の自主性と文化の自主性を願って絶対主義支配に抵抗し、文学運動をたたかっていた、そのプロレタリア文学が存在されなくなったということは、とりも直さず、日本文学の客観的な防衛力が文学そのものの領域から奪われたことを意味した。
今日かえりみれば、それからのちひきつづいて文学の世界に渾沌をもち来すばかりであった文学理論、批評の消滅の現象こそ、一九三七年七月中国に対する侵略戦がはじまってから、日本の殆どすべての作家、詩人が、軍事目的のために動員され、文芸家協会は文学報国会となって、軍報道部情報局の分店となり、日本の文学は、文学そのものとして崩壊しなければならないきっかけとなったのであった。
けれども、当時、このことは見とおされなかった。その文学理論を中心として対立していたプロレタリア作家と既成の作家、そればかりかプロレタリア文学の運動に参加していた人たち自身の間にさえ、プロレタリア文学運動の終熄は、プロレタリア文学に携っている一部の人々への弾圧、反対者にとって小気味よい光景として見られたのであった。そして、一九三二年の春以後は、すべての文学理論から、社会における現実である階級性を抹殺して語られることになった。この転化が単に文学と階級との問題ではないことに十分心づかず、野蛮な権力で、人々の命と生活とその発言とが奪われることの一表現であることを自覚しないで、作家は奴隷の言葉で語りはじめつつ、次第に自身の運命をも奴隷の境遇に導かれて行ったのであった。
一九三四年(昭和九年)頃から随筆文学が流行して内田百間の「百鬼園随筆」、森田たまの「もめん随筆」などが盛んに流行した。
不安の文学という声に添うて現れた現代文学におけるこの随筆流行、随筆的傾向の擡頭は深い時代の陰翳を語っている。婦人作家の問題に直接ふれて注目をひかれるのは、この時期に入ると、婦人が文学を生み出して行く生活環境に対し、この随筆的気分が極めて微妙に影響しはじめたことである。
林芙美子や宇野千代が、自身の文学出発の条件として、計らざる幸運、便宜と計量したのは、自分が女性であるとともに、放浪した女性であり、給仕女であった女性であるということであった。そのような下積みの環境にある女性の、その暮しの流れをそれぞれの階調で描き出すところに、文学的一歩のよりどころは置かれた。そこには従来の所謂教養ある婦人作家のかたくるしさや、令嬢気質、奥様気質とはちがった、わけしり、苦労にぬれた女の智慧、風趣などが特色として現わされたのであった。
ところが「もめん随筆」のあらわれる頃から、婦人と文学の社会的な関係が、云わば逆転した形をとりはじめた。文学というものは婦人の生活との結びつきで、再び一種貴族趣味の、或はげてものめいた趣味、粉飾となり始めたのであった。「もめん随筆」などはその点で典型をなした。女心というものの扱いかたも、或る種の男の世界を対象として、そこで評価される「女心」のままにポーズして行っていて、天然欠くるところない女に生れながら女の生地を失って、「女形」の模倣するような卑屈に堕した。
神近市子というようなひとまで、この頃書いた故郷の正月を語る文章の中では、故郷の旧家の大仕掛な台処のざわめきの様を、愛着とほこりとをもって描くようになった。『青鞜』の日、若いこの婦人評論家は、その旧家の保守の伝統と重さに反抗して上京もし、生活の幾波瀾をも重ねて来たのであったのに。
岡本かの子が、多摩の旧家の※[#「草かんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]たきめの童としての自身を描きはじめたのが、この時代からであることも意味ふかい。
「不安の文学」が、不安にも徹しないで、やがて文学のうちそとでは、能動精神ということが云われはじめた。当時の日本の治安維持法という野蛮な暴圧のある社会。そのために文学における社会性階級性の問題も一九三三年以来はまともにとり扱われることのなくなった当時の日本の文学に流れ入っては、全く独特な変調をとげた。不安の文学という声が響いて以来、すべての中間的なインテリゲンツィアの心理に瀰漫した思惟と行動との不統一、分裂は遂にその低迷と無気力とで人々を飽きさせて来た。その沈滞を破ろうとする、「行動主義の文学」が求められ、能動精神が唱えられて来た。しかし、フランスを中心としておこったファシズムから文化を守ろうとし、人間性を守ろうとした人民戦線運動が、小松清その他によって日本に紹介された当時から、反ファシズムという、きわめて重大な民主的政治的文化活動の基本になる政治性つまり階級性というものを、日本での提唱者は極力抹殺した。文化文芸における人間復興の希望も、現実的に一貫した方向をもち得なかった。真の人間らしさ、輝やかしい人間性の群像からみれば、頽廃そのものは一つの非人間的な社会現象であるにも拘わらず、頽廃の人間的肯定をいう高見順の作品のような文学現象も見られた。人間らしいものと人情的なものと混同。人間の機能のうち感性的な面だけを自覚しそれを主張する生命主義的な傾向、所謂「知性の彷徨」の正当化。それらはすべて人間肯定の名によりながら、結果としては、各人各様の主観的な文学上の主張により立たせることとなった。川端康成の模造された美の文学世界。武田麟太郎の世塵の世界。北條民雄の死と闘う病者の世界。坪田譲治の稚きものの世界。尾崎士郎、石坂洋次郎などの作品とそれに背中合せのような島木健作の所謂良心的作品、阿部知二の「知性」の文章の世界などを展開させた。それらの種々雑多な作品の主観的な主張に対して、文芸批評は殆どその本来の性質を失っていて、客観的に社会と文学の統一的な現象としての作品研究や、評価にあたる任務に堪えなくなっていた。「批評文学」などという呼び名を生んだ随筆的批評の傾向さえ現れて、批評家たちは十何年も昔平林初之輔や青野季吉、蔵原惟人等によって、やっと、客観的な文芸の批評の基準がきずかれた貴重な到達点を、放棄してしまった。人間復興の声が、当時の社会の雰囲気のゆきづまり渋滞を破ろうとする要求から、文化の楯として要望されながら、人間性の恢復、人間主義の思潮にとってルネッサンス以来歴史的な本質であった批判の精神をすてていたことは、どんな声も無駄にする欠陥であった。自己愛護から批判精神を肯定克服出来なかったことは、日本の現代文学が、その後ひきつづいて陥った悲惨な過程の重大な動因をなしている。治安維持法は外から、文学の内部からはその法律の兇猛さにおされながら、しかも自分たち文学者が理性を喪失するのは、自分たちの責任ではなくて、これまで、社会性階級性を文学に強要したプロレタリア文学に対する正当な「人間復興」の一部分だという風な考えかたは、果もなく現代文学を崩壊させた。
過去の日本文学のジャンルで、「随筆」と云われたものは、評論に期待される批判精神の骨格を求めず、小説に必要とされる構成も求められなかった。構成の本質は現実把握である。随筆流行が、決して、その時代の真剣な文芸思潮の高揚を語らないのは、世界の文学史をみてもわかる。気分や雰囲気を中心としてかかれる随筆的傾向に応じて出現した婦人作家が、社会的感覚において旧套に服しているのもさけがたいことであったかもしれない。間もなくこの「人間復興」の声が戦争進行の怒濤の下に巻き去られ、「生産文学」という方向へ動いて次第に文学作品から人間生活の像が追放されはじめた。戦争遂行のために生産は高められなければならず、農民は忍耐づよい増産にいそしまなければならず。この時代に間宮茂輔によって提唱された「生産文学」、有馬頼寧を頂く「農民文学」の会などは、すべて間接に戦争協力の方向に立った。やがて全く自主の世界を喪った純文学が、文学の外のよりつよい軍事的な政治力にすっかり圧倒されて、文芸協会は文学報国会となり軍情報部と情報局の役人をその理事に頂く有様となった。数年前は若い女性のために新しい場面を提供した『女人芸術』もその自由を萎縮させてしまった。これらの時期に送り出された何人かの婦人作家たち、例えば川上喜久子、小山いと子、岡本かの子などが、その創作のモティーヴにおいて、それ迄の人々とは著しく異った要素をもって来ている事実に注目しなければならない。
嘗て横光利一が文学における高邁な精神ということを云った。だがその現実は、社会的生活者としての人間とその文学における思考と行為の収拾しがたい分裂への降服の叫びであった。現代文学は、この時期に入って益々そのギャップを救いがたいものにし、作家の
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