して、彼等の生きかたへの好奇心と共感とが高まって来る。河井の求婚をことわった原因として、関の交渉を陳腐に臆測されたことが却って二人に心理的に作用し、真知子は遂に関に向って告げる。「いつだって考えていたのです。今の生活から私を救い出してくれるのはあなただってことを。――あなたに依ってだけ、私は生き直れることを。――」
関が、当時らしい考えかたで血の問題と云っている出身階級の相異の点も、真知子は愛の力で克服し得ると信じる。関は真知子の愛を知り、自身の愛を認めながら、「もっと意地悪になれたら係蹄にはかからないんだ」と、ブルジョア出身の真知子との愛を係蹄と見るような考えかたを持っている。その場で愛の全幅的な表現を求める関を、真知子は「あなたと結婚した以上もう家には帰らない。――女の潔癖。この気持、男のあなたには分らないのよ」と明後日の晩、すっかり家を出て来る約束をする。約束の日の朝、米子の突然の訪問で、真知子は今日の関との結婚を告げたが、米子の白く膠着した唇から洩れた一言は「――あのひと私とも結婚してる筈だわ」という言葉であった。しかも米子は、関との間の子供の母となろうとしていた。
もしこの事で関に失望しないのならこのまま自分は大阪にかえってよい、という米子を、真知子は説得する。「生れて来るものの為にも、あなたの為にも、寧ろあのひとのためにも」関から離れてはいけない、と。そして「私はもうあの人を愛しちゃいないんだもの。はじめから愛してたんじゃないのかも知れないわ――多分。愛してたとすれば、あの人じゃなく、あの人たちの考えかただったのよ」とひどく観念的に飛躍した心持におかれるのである。
他の作品では極めて用心ぶかくリアリスティックであろうとして来ている作者が、この作品では関という人物も真知子も観念的に動かし、飛躍することを許しているところは、今日読者の関心をひくところである。深い混乱は、婚約破棄の場面で関と真知子とがとり交す会話に一層まざまざと浮上って来る。
「少くとも君に対してどんな悪いことを僕がしたんです。君は僕を好きだと云った。僕を踏台にして環境を飛び越えようとした。僕も君は好きだ。君の飛躍に手を貸そうとした。それだけ」関は、大庭米子のことももし真知子が訊いたらば[#「もし真知子が訊いたらば」に傍点]話したであろうという。大庭への愛情は「亡くなった大庭(米子の兄)に対すると大差はないので、勿論君に感じるものとは性質が異っているから、僕自身としては気持に矛盾はない。努めて君をさけようとしたのは」と関の持ち出すのは、「個人は常に無であることを必要とする生活に、最も個人的な恋愛を入れるのは、どんな形においても無理だ」という考えからである。それが活動の妨げになる実例を関は見て来ている。大庭とのことは、「彼女が大阪へ行ったことは結末がついたようなもんだから」というのが関の云い分なのである。
一人の女性が否定的な環境から脱皮しようとするとき、その飛躍に手を貸す友情的な助力が結婚と同義語的に見られ得ることなのだろうか。又、男同士の友情の延長だと、その妹に子をもたせるような関係に入ることが自然な人間性だとでもいうのであろうか。まして、米子が大阪へ行ったから、もうけりはついたと思ったという関の情理の粗末さは、あり来った男の無責任とどうちがうだろう。関のこれらの判断は混迷して非条理であるし又人間らしくもなければ、自覚ある男らしくもない。恋愛というものの内容に何の新しい本質も見出さないままで、ただ「私的」問題とされていることなどについて、作者は分析も疑問も与えていない。大庭との恋愛のいきさつについても作者は関を追求し得なかった。作者の観察と勉強によって作中につかまえられて来た関は、遂に作者の手に負えずそれはそれ、としたまま、真知子が「全女性のものであった憎みで」次のように叫んだことに作者としての感動を合わせている。「女がひとりで母親になれるとお思いになるんですか。あんたは望みもしなかったことを米子さんだけ望んだと仰云るんですか」と。ここで、テーマはいつの間にか、嘗て『青鞜』がそこを脱出し得なかった社会の段階へ、捩り戻されているのである。
人間のみんなから貧乏をなくするように、こういう女の苦しみもなくなるのでなかったら、何になるだろう。斯んな思いで苦しむ人が一人でもいる間は、どんな見事なくみ立てで未来の社会が出来上ろうとも、真知子には、決してそれが完全な社会ではないと思えるのである。
真知子の、この半分ものがわかり、半分はまるでものの分っていない疑いに答える関の言葉には、極めて真面目に歴史の中にとりあげ、見直されなければならない重大な錯誤がふくまれている。「人間に病気があるように、貧乏のない社会が来てもその種類の苦痛は多分残るでしょう。併し個人的な、特殊な限られた場合に於ける私事にしかそれは過ぎない。その日の民衆のかち得ているものや幸福、それを実現させているものに関係ない筈です。例えばこの社会で、どの家の誰かゞ歯痛に悩んでいることが、一般の飢や失業と関係はないのと同じで。――もしそれを何か関係があるように考えたり、一小部分の現象で全部の構成まで否定しようとしたりするのは、過去の個人主義的迷妄ですよ。」
歴史の現実の歩みは、関の説明とは全く反対のものである。人々のかち得るもの、幸福と呼ばれるものの実体のうちに金銭問題以外に男女の生活の面で、過去の気まぐれで無責任であった関係を、より社会的な感情、社会的な責任ある連帯、社会的な施設に高め実現してゆくそのことがふくまれていなくて、何の幸福があり得よう。感情にはっきりしたよりどころもない性的交渉で、私的[#「私的」に傍点]に生れようとする子供を抱えて、一人の進歩を希う若い女性が個人[#「個人」に傍点]的に苦しむという状態が、そのままで「一小部分の現象」として、合理的の社会の全部に無関係にはめこまれて在るというような逆立ちした見とおしは、そのものとして全く奇怪である。階級の根絶ということは、階級社会のすべての社会悪の否定である。決して決して唯「貧乏がなくなる」というだけのことではない。社会生活の発展の現実は、各個人の感情そのもののうちにある過去の分裂を、統一に向わせるものではないのだろうか。物質的条件に立って実現する精神と性格の新しい展開こそ、人間の歴史のよろこびであるのではないだろうか。作中の一人物として、社会歴史の現実的展望を根本から誤って見ている関を典型として、その誤りに立脚してくりひろげられる関の思索に対立して「人間がめいめいの意欲をどう清算してゆけるか、その疑いで立ち往生した」真知子が全面的に正当とされている。読者の心にはつよい問いが湧いて来る。そういう関を分析し得ない作者として自然真知子のその疑問が導きのこされたのであろうか。それとも、真知子のその発言が表現されたくて、作者は関の非条理を許して来ているのであろうか、と。
関と結婚するつもりで家を出た真知子には、その関を否定した今、此からの自分がどこへ行くべきか分らない。わかっていることは唯関について行けないということだけである。真知子は、地方の町へ赴任している姉の婚家へ行ってそこに滞在した。かつて彼女から求婚を拒絶された河井が偶然その地方へ考古学上の発掘に来て再会する。彼は時代の激しい潮流に対しても、生ずべきものが生じつつある、と観る人間である。「どんな社会でも、自分たちの過去ははっきりさせる願望を捨てないでしょうから」と専門の学問への確信をもちつつ「正直なところは、当分何事も起らないで、やりかけのものを落付いて続けて行ければそれが私には仕合せなのです」というのが河井の生活の感情である。
三月前とは心持の違って来ている真知子は、そこに「人間としての真実を見た」。やがて河井の資本系統の会社にストライキがおこり、それを知った真知子は、急に東京へかえる気になった。その汽車の中で河井が会社を職工の共同経営にまかし、研究所だけをのこして不動産の殆ど全部をなげ出すことにしたことを知らされる。真知子の周囲のものたちは、殆ど破産した河井と結婚しなかった彼女を「運の強い方よ」とよろこぶのであるが、「この時ほど河井に対する彼女自身の隠されていた愛を、はっきり感じたことはなかった」というのが、真知子の心の結果である。
米子は、自分たちの生活にある矛盾も不自然も遠いいつかは矛盾でなくなり、不自然でなくなるという漠然とした期待はもちながら、現在の悲しみによって一層関に結ばれている自分の心持を肯定し、その心持は「関に関係はないわ。私ひとりのこれは感情だもの。苦しむのは勝手に私が苦しむのだし、関までその中に捲きこみたくないの。そんなことをすればあのひとは私を軽蔑するわ。あの人を愛することが、絶えずあのひとを束縛することになるのだから、そんな愛されかたをする時間はあのひとには当分ないのだわ」という心持のまま、この小説は終られている。この米子の心持のなかに語られている、愛されかた即ち愛しかたの問題こそは、この長篇のテーマにふれたものだけれども、それ以上には追求されないままに終っているのである。
真知子に与えられた世俗的な「運の強い方よ」という言葉は、別な内容として、この一篇をよみ終った読者の胸にも湧く感想ではないだろうか。何故なら、真知子を反撥させていた河井の大資産家としての生活環境やその母の権柄などというものは、工場のストライキというひとの力で、労働者のおかげでその経済的な根拠を失わされ、真知子にとって、河井の生活へ結ばれてゆく、良心のなだめ[#「なだめ」に傍点]が運よくもつくられた。河井が自分の工場を職工の共同経営にゆだねるという態度も、真知子の好みにふさわしいし、まして、金にあかした研究室だけは、安全にのこされたということは、真知子にとって余り運がつよすぎることではないだろうか。真知子は、河井に結ばれるように自分の考えのかわったことが「後戻りしたなんて簡単に片づけられるの、厭なこったわ」と云っている。作者のある心の声がここに響いている。そう感じるのは間違っているだろうか。
作者の意企は、関に会う前の真知子、関とのいきさつの中にある真知子、そのいきさつの破れた後の真知子と、少くとも三つの段階を経て一人の婦人の内部成長の足どりを辿るところにあったに違いない。けれどもこの一篇の初めと終りとの間に果して真知子の本質的な発展があっただろうか。読み終って考えれば、真知子の時代的な冒険の歩みは、とどのつまりにおいて、彼女に、もとのままの彼女の中流的な物質と精神の必要、好み、時代おくれでもなく急進的でもない、自分にのこされた適合する良人、河井を見出させたハッピー・エンドの物語であるとも云い得る。そして、米子は、真知子の工合よくめぐり合わせのかげに無解決のまま、母となった米子のむずかしい人生はもう作者にとりあげられていない。
この長篇「真知子」は、野上彌生子の作家としてのつよい意図のもとに構成されている作品である。中流上流生活の姿も、常識的に描ける範囲ではこまかく描写されているし、関と真知子、河井と真知子などの間に交わされる会話には、芸術の価値についての論議、学問というものが存在しなければならないその意義についての対談もあり、コロンタイズムへの質疑もふくめられている。生きて動いている時代の脈動に対し、時代的なトピックに対する作家としての積極的な反応を示そうとした力作である。が、その作品の内部に、主観的に客観的につめこまれているはげしい混沌もまた何とこの作家の属している上層有識人たちの歴史的な性質を語っていることであろう。全体としてその混沌はこの階層の歴史的な諸要素を照りかえしながら、同時に、作品を貫いているテーマの発展とその帰趨においては、この作家の精神の曲線の特徴的なカーヴが描き出されている。このことも亦示唆に富んだ事実だと思う。
ホトトギスに、厭味のない、あっさりとしたつつましい作品を発表して以来、この作家はその身辺の事象を作品の中に捉える観察の投げ
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