れるのと同様である。
宇野千代、林芙美子という婦人作家たちは女と詩という、感性に立っていて、小林秀雄のように、「知的こんぐらかし」には立っていない。けれども、文学というものは、何と人間らしく、容赦なく又興つきないものであろう。作家の現実が、その人の文学をのりこえてしまったとき、文学はもうその人の書く作品の中にはなくなって、却ってその作家と出版企業とのいきさつが、近代小説のテーマと形象として浮き上って来るのである。
社会の現実のうちに階級と階級との対立があるという事実は、プロレタリア文学に対して、常にそれに対して、反対する一方の社会要素があることを予定している。
「新感覚派」と云われたグループは、六七年前、生まれて間もなく解体していたが、一九三〇年中村武羅夫の「花園を荒す者は誰だ」とプロレタリア文学を侵入者として見た論文をきっかけとして、十三人倶楽部による「新興芸術派」が組織された。中村武羅夫、岡田三郎、加藤武雄、浅原六朗、龍胆寺雄、楢崎勤、久野豊彦、舟橋聖一、嘉村礒多、井伏鱒二、阿部知二、尾崎士郎、池谷信三郎等の人々であった。「新興芸術派」の特色は、これぞと云って系統だてて主張する独自の芸術理論というものはもたなかったところにある。雑誌『新潮』を中心としたこれらの作家たちは共同して、当時プロレタリア文学が問題として提起していた世界観の問題、文学の社会効用の問題、作品の内容が形式を決定する、という内容と形式についての論などに反対し、これらの束縛、圧迫から解放された新興の芸術をうち立てようとしたのであった。けれども、当時のプロレタリア文学の諸問題に反対し、それを否定するという立場だけで貫かれていた作家たちの現実に行った文学活動は各人各様で、かつての新感覚派の作家たちが、ドイツの表現派まがいの奇抜さで束の間の好奇心を刺戟した、その目新しさも生じなかった。
プロレタリア文学運動も高まるだけの必然をもっていた当時の日本の社会的な感覚の目ざめに動かされて、新感覚派に属していた片岡鉄兵が、プロレタリア文学にうつり「綾里村快挙録」という彼の代表的農民小説を書いたばかりではなかった。ドイツ文学の教師から出発して人道主義風の作品を書いていた山本有三が、彼の文学経歴の中で社会的意味の大きい「波」「風」「女の一生」等を生み出したことも記憶されるし、上司小剣が「東京」という大長篇を思い立って第三部まで執筆したことも見落せない。ゾラに「巴里」がある。震災で古い東京はなくなった。その思い出のためというばかりが、小剣のモティーヴではなかった。社会の渦の中心としての都市「東京」が描きたかったのであろう。しかしこの大長篇が、完成されなかったということも同時に記憶されることである。広津和郎がこの頃盛に書いていた連載ものの一つに「女給」というのがあった。プロレタリア文学理論に対しては懐疑的な一面をすてないこの作者も、「女給」は、ただ享楽の対象としてではなく女が働いて生きてゆく形として、三上於菟吉その他の大衆文学とは異った面から描こうとした。「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」の作者佐藤春夫が執筆していた「心驕れる女」という通俗作品に登場する人物にさえ時代の空気は流れ入っていた。通俗小説さえその現代性を粉飾する要素として、左翼的[#「左翼的」に傍点]な若い男女の行動や心理を、歪め、誤解し、逆宣伝しつつその中にとり入れていたのであった。
両性問題がこの時代のように社会関係と道徳の建て直しの意味で広汎に論議され、広汎な現実で試みられた時期は、おそらく明治開化期以来なかっただろうと思う。
第一次大戦後の経済恐慌によって未曾有な失業の問題が社会の前面に立った一九一九年以後、男女の失業、生活難による婦人の貞操問題がやかましく云われて、当時創刊された『婦人の国』などは「貞操十字軍の高唱」を標語としたほどであった。同時に、生活難に対する政策の一つとして、産児制限が常識のうちに当然のものとして地位を占めるようになったし、女にばかり向けられて来た「貞操」というものに、科学的研究が向けられるようになった。『青鞜』の時代、人格の問題としてだけ扱われた両性問題は、山川菊栄の訳した「結婚難・離婚流行の社会的研究」を『女性改造』が特輯したり、ベーベルの「婦人論」、エンゲルスの「家族、私有財産、国家の起源」などを背景として、婦人の社会的境遇と両性関係は、全く社会科学の光りに照らされはじめたのであった。山本宣治の生物学を基礎とした性科学論。法学博士浮田和民が生物学的立場から両性問題を進歩的に見ようとした「新道徳の中心問題と婦人の解放」。評論家厨川白村は、「近代文学十講」を書いた平明流達な筆致で、エレン・ケイの思想から一層社会性を稀薄にしたロマンティックな恋愛論を発表し、三宅やす子が、日本の習俗として、女に辛い未亡人の立場を反駁した「未亡人論」など、ひろく流布した。
当時三宅やす子の平明な人柄や常識性が、一般家庭の婦人の前進性の一番近い啓蒙となったことは肯ける。しかし、「未亡人論」によって因習とたたかって立った三宅やす子は、その後十余年のジャーナリスティックな活動とその成功のうちに、いつしか、彼女自身のうちに根づよくあった旧套に足をうばわれた。自身の生活にある両性関係の現実においても、窮極は、独立している女の自由というものの解釈において、田村俊子の後期の作品に表白されたと同じ卑俗に堕した。「一本立で、可愛がるものは蔭で可愛がって、表面は一人で働いている方がどんなに理想だかしれやしません。」婦人の幸福というものがそこにあり、その形でよいものならば、抑々三宅やす子は、何のために「家庭は家庭」として妾をもつ男の性的放縦とそれを許している社会の習慣に抗議したのであったろう。「偉い男がお雛妓《しゃく》を可愛がる。そのように女が男を可愛がって何故わるいのだろう」そう云って、素性もいかがわしい若い男をひきつけて暮すのが婦人の自由の確立であったのなら、逆の隷属物としての女を、未亡人の立場で非人間に封鎖して来たえらい[#「えらい」に傍点]男の自由を、何の根拠で咎めるのであろう。女としてすこし明るい常識に立つ発言でジャーナリズムにおける常識の指導者となり、その成功の果は、菊池寛が陥ったと全く同じな社会悪に対する感覚欠如に陥った三宅やす子の生涯の後半は、無限の教訓にみちている。
時代の内容は複雑であった。両性問題についてもはっきり、階級の姿が見られた。失業と生活困難とを根底において、ルンペン的になった小市民層の男女の感情は、当時の急進的な見解が小市民層というものを規定した簡単な否定的な評価に反撥して我から虚無的になり、旧い道徳の規準は破れたが、未だ新しい道徳は確立されていない性問題に虚無性を結びつけて実践して行った。失業と生活難をよそに有産有閑の男女には戦後の経済変調によって失われてゆく従来の家庭の安定性の崩壊があり、不良良人のためには、慣れっこになった芸者ではないステッキ・ガールと呼ばれた若い街の女たちがあらわれた。不良マダムという名のもとによばれた不幸な妻たちの周囲には、彼女たちの空虚にくい下る各種各様のとりまき男が出現した。
これらに対して、昔ながらの勤労と家庭の負担にくるしむ勤労階級の婦人を、男への隷属から解放するためには、その形こそちがえ男も女とともに、その束縛の下に挫がれている資本主義社会の矛盾とその悪い伝習とをとりのぞかなければならないとする社会運動の努力に若い男女の熱意が傾けられた。そのような進歩への努力の道すじにおいてさえも、日本独特な過去の伝統が微妙に作用した。新しい世代の性道徳が建設されるのは、つまるところ新しい社会の招来以外にない。そのために生じる闘争の必要のためには婦人の貞操は一箇の私なものとして扱われるべきではなく、大きい階級の利害の下に歩み踰えられて行かなければならないものという考えかたが、一部の左翼的男女の間に生じた。本来、両性のいきさつを、よりひろくより健全な社会共同・男女連帯の責任の上にうち立てて行こうとしている筈の動きの間に、林房雄その他によって、ソヴェト同盟の革命当時、ブルジョア貞操観念に機械的に反撥したコロンタイの「赤い恋」「偉大な恋」などが紹介され宣伝された。コロンタイの性関係に対する解釈は、既に当時ソヴェト同盟では批判され著書も売られていなかった。それだのに、日本の当時に、一時期にしろそういう誤った考えかたがつよい影響をもったのは何故であったのだろうか。
ここにも日本の旧いものと新しくあろうと欲するものとの間の錯雑した矛盾があらわれた。社会の経済、政治、文化、生活全般に亙るより健やかな関係の設定の可能が、どの程度具体的にあらわれているか、その段階に応じて期待される両性関係の改新だけを、観念の上で性急に局部的に解決しようとしても、それは現実的でなかった。しかも階級闘争の必要のためには、婦人の貞潔などは拘泥されるべきでないと云ったそれらの人々が、育ち、生きて来た伝統そのものは、昔ながらの日本の封建的な男の身がっての習慣であった。新しい言葉で云われるその階級の必要ということで、女性の貞操に対する従来の宗教めいた考えかたを否定するにしろ、それは、男性の側から、やはり奥底では昔ながらの男の性生活における利己の習俗を、ちがった理窟と形とで肯定する立場で持ち出されていたという複雑な混乱があった。
時代の振幅はひろかったから、解放運動に身を置いている若い男女の間にそういう問題があったばかりでなく、既に結婚生活に入っている者の感情にも、過去のしきたり[#「しきたり」に傍点]が自分たちに強制した結婚や家庭生活に対して、公然の疑問と反撥をもって、古い狭い枠を犇々と押したのであった。
片岡鉄兵の「愛情の問題」という小説は、当時、階級運動に従っていた男女の一部にあった誤った性関係の見かた――闘争への献身は、性的交渉について、女が自主的に選択し判断してゆく権利を棄てることである、という考えを、そのまま書いた作品として批判された。
これに対して、窪川稲子の「別れ」は、荒い波の間に闘いながら互の愛を守ってゆく夫婦の物語がかかれている。同時に「別れ」は女が母となる、という自然なよろこびさえ、当時の活動の条件では自然なよろこびとしてうけとれなかった痛苦の物語でもある。
この時代をめぐる前後の十年間に、家庭内の取材から次第に社会的な題材へと取材の輪をひろげて来た野上彌生子は、一九二八年(昭和三年)から長篇「真知子」を発表しはじめた。
東京の上流とも云うような生活環境に育っている真知子は、帝大文学部の聴講生だが、何ぞというと身分とか対面とかを令嬢としての彼女に強いる家庭と、その周囲の生活気分に絶えず苦痛を感じている。友人の米子が、経済上の理由から聴講をやめ職業につくことになったのがきっかけで、学外の左翼活動に入って今は学生でなくなっている関三郎という人物と知り合う。作者が関という人物を、どう描き出しているかということが興味をひく。東北の或る村の水車小屋の息子として彼は生れた。そして、社会発展の歴史の新たな認識は血の問題だという信仰をもっている。彼が下宿している窓の下に脳病院があって、そこから聴えて来る狂人の咆哮を、関は寧ろ痛快に感じて聞く。はじめは純文学の仕事をする積りだったという関、階級闘争に参加している一方ではギリシャの古詩を愛読しているということを、関の性格を語るモメントとして、作者は描いている。
関との初対面で真知子のうけた印象は、何て威張っているのだろうという気持と「変な不快さと気味悪さ」に交って「額と眼に特長のある蒼白な容貌には」文学をやっても屹度出来たのだわ、この人なら。と思えたという感想である。真知子をとおして代弁されている作者の、当時の青年の一つのタイプに対する感覚も面白く思われる。
河井という考古学専攻の資産家の息子から真知子に対して示される関心、やがて彼からの求婚、それに対する周囲の卑俗なよろこびかたに対する反撥が、次第に真知子の心に関の存在をあざやかに
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