「作品に対する意欲の烈しさを求める」という風な表現に転じた。一人の作家が人間として生きるどのような真実、実感、リアリティーを作品の世界に再現しているかという点は重要視されず、作家がどんな意欲の逞しさの自意識[#「意欲の逞しさの自意識」に傍点]で題材に面しているかという点がとりあげられ、それは作品の生活的真実即ち文学的現実と切りはなして云われた。この創作心理の断層から、題材主義の文学が簇出し、生産文学というものにもなって行ったのであるが、この文壇的雰囲気が川上喜久子という一人の婦人作家の創作態度に反映した。そして「滅亡の門」その他が発表されはじめた。
「滅亡の門」が発表されたとき、室生犀星は評をして、作者の一生懸命な力みはわかるが、女が男の真似をするにも及ぶまい、女は女のことを書いて欲しいという意味のことを云った。男性の作家が、婦人作家に対するゆとりで、女は女のことをと、一段下につきはなしてみれば、川上喜久子という作者と作品との血肉関係の不自然さをとらえ得る室生犀星その人も、自分の作品に向うとその制作態度が、やはり時代的な意欲の逞しさ[#「意欲の逞しさ」に傍点]に作用されて、偽悪の世界に四股をふんでいる姿であったのは面白い。
数年前『婦人公論』に短篇を発表した時代の小山いと子は、その作品のテーマを、意に添わない家庭生活の中に生きる女性の苦悩において描いていた。ところが、婦人作家がそういう題材を選ぶときまって日常生活の中で周囲からの世俗的できびしい悶着をおこし、少くない面倒をかもし出す。そんな理由からも、小山いと子という作家は段々「熱風」や「オイル・シェール」を書くように変化して行ったのであろうか。
この作家は、特長として、自然発生の生活力をもっていて、一種の行動性もある。おさえられている環境のために、絶えず刺戟され発熱している人生衝動がひそんでいる。そのためもあって、多くの婦人作家たちのように、あの気持、この気持を綿々と辿って、そこに女の文学と云われる曲線を描き出してゆくような文学境地を狭く息苦しく感じるらしい。そして、よりひろい空間と、よりひろい社会の場面に自分をふれさせ其を描きたい欲望が、彼女を「熱風」や「オイル・シェール」に向わせた。その意味では、婦人作家の中の異色ある性格として、積極に見られてもいいであろう。しかしながら、彼女がそういう作品に関心を示しはじめた時代の、戦争が万事であった日本の侵略的空気、技術も文学も、外国そのものさえ軍事目的をもって考えられた時代を背景として見た場合、彼女の題材の拡大には、文学上周到な省察が加えられなければならなくなって来る。
「熱風」にしろ「オイル・シェール」にしろ、婦人作家としては珍しく、見知らぬ外国を背景として、そこでの日本技師のダム工事にからむ事件や人造石油製造工業技術の発展に絡む人事などが扱われている。作者は熱意をもってそれらの事件の経緯を調べ、可能な限り見聞をあつめて描いているのだけれども、それらの作品が、題材負けしたことと、登場人物の心情が、生ける人間の姿として読者に迫って来ないことなどを共通な弱点とした。これは、何故であったろうか。
日本の女性全般が今日の社会生活の中でその肉体と精神を絡めとられている矛盾が、この作家一人の成長の道の上にも、深刻な困難として横わっているのが見られる。第一、この作者小山いと子が屡々創作慾を刺戟されているような巨大な土木工事というような社会的建設の複雑な場面に、日本の女性はどんな必然のつながりを持った経験があっただろう。日本にはまだ婦人の建築技師さえ出ていない。「支那ランプの石油」の著者アリス・ホバードが、アメリカの一女性として、スタンダード石油会社の勤人の細君として、中国で経験しただけの経歴さえも、日本の女性は持っていない。良人とともに外国住いした日本の妻たちは「あちらの婦人なみ」に話し、身じまいをして、彼女等のマンネリズムに順応するだけが精一杯でやって来ている。西欧の近代ブルジョア文化は、模倣に熱心な日本の女性にさえそんな苦労をさせるほど、物質的に、精神的に日本に先行しているのである。中国、朝鮮などに、日本の侵略と無関係なただの一人の日本婦人も行ったことはなかったと云えるような悲運におかれているのである。それかと云って、調べた文学として、題材を研究し調査しただけで、作品のリアリティを生むほど、日本の婦人作家は諸工業、技術、技術者の心理というものに通暁しているだろうか。その答えは、今日の日本の文化全体の水準から見ておのずから明白であろうと思う。ソヴェト同盟の老婦人作家シャギニャーンが、三年の間、日夜その事業の進行と共に建設する人々の中で生活して「中央水力発電所」という小説を書いた。婦人作家として、社会的条件の上で可能とされている、そのような情熱の具体化の道は、半封建の日本で小山いと子の前に開かれてはいないのである。「熱風」のような題材には、表面にあらわれた事件として作品に語られているいろいろのいきさつのもっと奥深いところに、決定的な事情として横わっている国際間の政治的な支配力と支配力との間の微妙な動きについての洞察が、文芸以前に現実をつかむ予備知識として作者に求められる。
歴史の現実に立つ社会関係、国際関係、その間に悩む人間関係等についての理解のせまさから、めくら蛇におじず風に謙遜でなくなって、現実への畏れを失い、作者の我が思うところにしたがって勝手に生活的真実を料理してゆくことになっては、作者が望むと望まないにかかわらず、「生産文学」が今日の社会と文学の現実に対して犯したと同じ誤りに陥ることをさけ得ないのである。
小山いと子という作家が、いつも勉強した題材によって作品を描こうとして小さい自分の身辺にからまるまいとする欲望を示していることは、十分注目され、鼓舞されなければならないと思う。それにもかかわらず、この作家は、自分の野望のたくましさと、それに矛盾する日本の社会的条件のわるさについて、あまり関心がなさすぎる。云わば呑気すぎ、無智すぎる。そういう社会的な理由に対する作者自身の無自覚に加えて文学の世界の人々は「熱風」や「オイル・シェール」の文学的失敗の結果についてだけやかましく云って、只の一言もその作の貧困をもたらしている日本の社会文化生活の貧困条件について、いきどおらない。このことを、私たち婦人作家は深く銘記させられる。小山いと子の貧寒は同時に日本の全作家が、男女にかかわらず、その生涯にわけもっている近代作家としてのマイナスである。そのようなマイナスを与え、一人のアリス・ホバードも、一人のパール・バックも生れ出られない旧い日本の生きかたに対しては、鋭いと思われ、思っている室生犀星の神経さえ一向に働かない。彼はただ女は女のことを書くように、と云えただけであった。新しく文学に登場した新しい失敗から、文学者のためになる批評、文学を発展させる能力となる反省は一つも導き出されなかった。「女は女のこと」と云われるとき、小山いと子の心に何が浮んだであろう。彼女は再び出口のない女の歎きにかえるしかしかたがないのであろうか。そして、その歎きを真実打開しようとする努力も失って、歎きさえ女の一つのしな[#「しな」に傍点]のように描き出す修練に、文学をすりかえなければならないのだろうか。小山いと子が困難な前途において、彼女の生活力をどう発揮し自身の精力的な文学上の野望と殆ど歴史的な矛盾を、どう処理してゆくかということは、決して一人の小山いと子の問題に止らないのである。
この時代の日本の文学が、数年の間「人間復興」の声をあげつづけながら、社会と文学認識の封建制、軍事性に負けつづけ、ヒューマニズムの文学、能動精神の文学、より社会性のある長篇小説と求めつつ、一歩一歩と、文学の中から人間らしさと文学らしさとを喪って行った姿は、殆ど涙せしめるものがある。社会性を否定して、どんな生きた人間の心が描けよう。どんな人間も社会と階級以外のところに生きてはいないものを。長篇小説と云えば、バルザックをとりあげてみないまでも活社会の活人間を描く力量が必要である。人間をつかまえ切れない当時の長篇小説への欲求は、忽ち題材主義に赴いて、人間の生ける心情の追放となって行った。そして、この社会の現実として現れる人間関係を文学の中に生かす努力を放棄した敗北的な作家の専横とでもいうべきものは、一面では生産文学を生み出すとともに、他の反面では、一見正反対のようなロマンティックな芸術態度を生むきっかけとなった。それぞれの側からだけ見れば、生産文学と岡本かの子の濃厚な自己陶酔とはまるで異った世界をつくり出しているように見えながら、実は不幸な背中あわせの時代的双生児で、共通の一本の脊骨は、現実探求の放棄、創作過程における作者の恣意という因果で繋がれていたのであった。最近の二三年間に、特殊な歌人作家岡本かの子は彼女の命のあやを吐きつくした。この婦人作家の独特さは、現代の文学が一九三三年以後とめどもなく駈け降りつづけた異様な「人間肯定」の坂道の上にまき起った真空に、吸いよせられて、そこに咲き出したものであった。
『青鞜』の頃既に歌人として歌集『かろきねたみ』などを著していた岡本かの子が、小説の仕事にとりかかりはじめたのは、昭和七年ごろ、外遊から帰って以後のことである。
彼女にとって「初恋だ」と云われていた小説が、この時代に開花しはじめたについて、どんな内部の展開が経過されたのか、略伝に記されているとおり、外遊が薬となって利いたという点もあるにちがいない。ひろめられた見聞によって自分の情緒の世界に確信が与えられたということもあるだろう。多摩の旧家の愛娘で、小作人たちなどとは、言葉など交したりしないものとして育った一人の特殊な天稟のかの子と、「町の画家で生活を派手にするばかりに」十二のときから絵を習わされ、「あの円い膝にすがりつき心の底から泣くそのことによって過去世より生みつけられたこの執摯捨鉢な道化者の心がさっぱり洗いきよめられる」ことを願って結婚した良人との生活で、この作家の経た心の風波は激しかった『かろきねたみ』に詠まれているように、
「いとしさと憎さとなかば相よりしをかしき恋にうむ時もなし」
いとしさと憎さの半ばする漫画家岡本一平との結婚生活の七年に、「愛のなやみ」の身を捩るばかりの感情世界をも経た。
「なやましき恋とはなりぬうらめしさねたましさなどいつか交りて」
「我が許へまことふたゝびかへり来し君かやすこし面変《おもがは》りせる」
更に七年を経て大正十四年にまとめられた『浴身』では、「かの子よ、汝が枇杷の実のごと明るき瞳このごろやせて何かなげける」と、自身を歎じた悩みの時代はすぎたように見える。何か内的な展開がもたらされた。そして、このころからこの女歌人は、
「春寒にしてあしたあかるき部屋のうち林檎の照りをとみかう見つゝ」とうたい、やがて、そのリンゴの可愛さにひかれてリンゴを持ったまま朝湯につかっている女としての我が心のはずみを、我からめで興じ、いとしみ眺める域に歩み入っている。この時代に辛苦であった経済事情も、ある安定を得たらしく見られる。
「おのづからなる生命《いのち》のいろに花さけりわが咲く色をわれは知らぬに」
「花のごとく土にし咲きてわれは見むわが知らぬわれのいのちの色を」
昭和四年外遊の前に出た『わが最終歌集』では、
「舞ひ舞ひて舞ひ極まればわがこゝろ澄み透りつゝいよよ果なし」
と、成熟感が自覚されている。
昭和十一年に晩年の芥川龍之介が登場する「鶴は病みき」が『文学界』に発表され、岡本かの子の作家としての出発が開始された。続いて「母子叙情」「金魚撩乱」「老妓抄」「雛妓」「丸の内草話」「河明り」その他昭和十四年の二月に急逝するまで、彼女の作品は横溢的に生み出された。
「をみな子と生れしわれがわが夫に粧はずしてもの書きふける」
とよむ状態のうちに送り出された。
この作家の世界の特色は、作品の量の多産とともに、溢れる自己陶酔、濃厚な色彩の氾濫、「逞しい生きの
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