での婦人作家の文学にない世界を展開した。この小説は「私」と一人称でかかれている。「過去に三人の男を知り、三人の男を何の悶えもなしにすてて来た女」としての自分が、現在の男との無為な生活で金につまって来ると、男はその女主人公である女と過去にかかわりがあった男たちの「誰かに頼んで少しつくって来る」ことを女にすすめる。女は「無能な夫との生活を守るために私は街に出て、こんなことまでして」一晩とまって一円もらって来る。かえって来て男に金は? ときかれ「電車賃だけですのよ」と答える。その中流めかしい言葉づかいは、その男女の生きかたの異常さと対照して読者の心持を妙にさせずにはいない。女は泊って来た男のところへ手紙をかきかける。「こういう世の中で無産の女性が、自分の生存を救うため唯一つのものを投げるのはやむを得ない事です。貴方にして真実な無産者の良心があるならば、それを認めなければならない筈です」だがどうせその男は金持ののらくら息子だ。三十円なんかよこすものか。女はその男の部屋へ訪ねてゆき、来あわせたアナーキスト仲間と丸の内の或る会社の寄附デーへ出かけて行って、五円ずつのところを十円とって来る。そのかえりに芝居を見物する。舞台の上では、心にない結婚をした女が、永年の後昔の愛人にめぐり合い、蒼白となって地獄と叫んで卒倒していた。「私も地獄と叫んで卒倒する女になって見たい」自嘲と苦しみの漲った作品である。
 この作品で力づよく描き出された混乱と自嘲とは、作者の身も心も全くその渦中にあっての自嘲である。過去にかかわりある男の誰かにたのんで金を借りるということと、そのことですぐ体を与えなければならないということとは、どうしてそんなに疑問のないぴったり一つこととして女である「私」に見られ実行されているのだろうか。苦しみ嘲りながら作者の心に、当然なその疑問は人間性の真実の問題として起っていない。男への手紙に語られている無産の女という考えかたや生活への態度も、もし無産の女が生きてゆくために、体を売るのはやむを得ないと云えるものならば、無産階級の解放運動の必然はあり得ない。いかにも初期の無産階級文学らしい素朴な特色を示していると思う。
「嘲る」の後に「生活」「新婚」等が書かれており、それらの作品では時代の動きにつれて同棲の対手が変ったこととともに、女主人公の生活が、虚無的な混乱の中から次第に引出されて来る道筋が描かれている。「夜風」「荷車」「敷設列車」などで平林たい子は自伝的な作品から農民生活・労働生活を描く作品にうつったのであった。しかしながら、なお何となく特別な関心をよびさまされることは、昭和五六年頃、この作者の発表した「悲しき愛情」という小説の中で、再びこの、食うために身をまかす女が、勤労する人々の現実の一タイプとしての見地から描かれていることである。
「悲しき愛情」にふれて、作者は次のように言っている。「私は自分の文学的な主張として勤労生活者の日常をもっと取上げなければならないという考えから悲しき愛情をかいた」と。尤もこの作品は、書き直されなければならないものと云われている作品である。それにしても、昭和五六年という当時勤労階級解放運動があれほど高揚していた歴史の現実との対照で、特にこの時代にそういう女を勤労階級の一タイプとしてかかれたモティーフは、どういうところにあったのだろう。
 プロレタリア作家としての平林たい子をもその波幅の一端にのせて当時の社会につよくさしひきしていた解放運動は、その頃、最も行動的な時期にあった。したがって、勤労者の日常感情の内容にしろ、婦人労働者、婦人の組合活動家たちの生活、そのこころもちにしろ、自分たちの独立を確保しようとして進んでゆく者の心持や行為の雄々しさの面で描くことがプロレタリア文学において積極的とされた。勤労する女の生活の進路も、勤労する男たちとその方向を一つものとして解放をめざした。男と女との間におこる様々の愛情の問題も、この時代には伝統的な重荷とのたたかいの形、封建の否定としてとりあげられていたのであった。婦人の解放は男とともに勤労階級としての解放なしには不可能であるという理解に立って、歩み出している女の像が文学にうつされて来た。その歩みの中では、男女の愛情の内容もおのずから新生面をもって拡げられて来た。
 この動く部分、積極な生活の態度をとりあげて文学に描き出して行こうとする努力は、決してたやすいことではなかったから、その間には文学作品として類型に堕した場合もあり、感情の一面だけが誇示されたような例も生じたのは事実であった。
 一人の婦人作家として、この作家がそのような当時の傾向に反撥して、自分こそは、現実にあるとおりの勤労者の日常生活を描こうと執した心持は、この作家の気質と照し合わせて考えたとき、極めて理解されやすい情熱である。だが、何故この作者が、勤労者の日常生活として見たものは「悲しき愛情」の石上の心理と、その妻小枝の生きかたでなければならなかったのだろう。嘗て「投げすてよ!」で侮蔑をもって語られた男の態度と同じように動く石上の心理と、自分を食わせてくれる男と一つ家に棲むからには、それなりいつか夫婦になることをあやしめない小枝という女を、特に何故働くものの日常生活や感情典型としてこの作家はとりあげなければならなかったのだろうか。
 英雄的に動く男女ばかりが、一般の働くものの心持の全部を代表するものでないと主張しようとするならば、小枝のような女の生きかたも、又それなりでは決して働くものの生活の現実の心持を語っている典型とも言いきれまいと思う。この作品を社会と文学との歴史の中において読みかえすと、作者の意図は、勤労する者の感情をどこまでもリアリスティックに描き出したいという単一な愛から出発しているより、寧ろ、プロレタリア文学の一方で或る理想化が行われているのに対して、これが現実だ、と反対の一つのものを自分の作品によって強烈なスポット・ライトの下に提示しようとしたところにあるように理解される。そして、その作者の意図が余り強烈であるために、テーマは遂に他の極端まで押されて、社会の現実としても文学としても歴史の又別の消極面へすべり込んでしまったものと見られる。現実の簡単な理想化に反対する作家としての抵抗は、その抵抗において現実を別な歪めかたに誇張する危険に陥らなかったとき、より客観的な真実に近づいたときだけ、初めてその試みの価値を発揮するのである。
 プロレタリア文学とその作家とが、新しい歴史の本質に立つということの根本には、当時もいまも、そしてこれからも、作者がよりひろいより客観的な現実の明暗を複雑多様にその作品に描き出す能力の確保の課題がある。ブルジョア文学が従来のせまい主観と個性との枠ではもうすくい切れなくなった社会現象を、プロレタリア文学は、より社会性の拡大された個性を通じ、より豊富な客観にうらづけられた、より潤沢な実感によって描く筈である。
 従ってプロレタリア文学には、旧い文学の世界にあるような才能だけの競争はあり得ず、一つ一つの作が、どれだけより真実に、芸術として現実を描き出しているかということについての差別と、比較と、よりよい達成への努力があり得るだけなのである。
 作家平林たい子の一つの特色は「施療室にて」一巻を貫き、そして現在につづいている根づよい自他に対する抗議の資質である。そして「出札口」その他の作品に店の宝石や釣銭やのちょろまかしという行為で表現された勤労者の現代社会への抗議の様式が、時をへだててちがった形で作品の中に反復されることに読者は無関心であり得ないと思う。なぜなら、勤労階級の抗議は、そういう盗み、ちょろまかしなどによってあらわされるものでないことを人々は歴史によって学んでいるのであるから。

     八、合わせ鏡
          一九二六―一九三三(昭和初頭)

「ひろ子はいつものように弟の寝ている蒲団の裾をまくりあげた隙間で、朝飯をたべた。あお黒い小さな顔がまだ眠そうに腫れていた。台所では祖母がお釜を前に、明りにすかすようにして弁当をつめていた。明けがたの寒さが手を動かしても身体中にしみた。」
「ひろ子は眉の間を吊りあげてやけに御飯をふう/\吹いていたが、やがて一膳終るとそゝくさと立ち上った。」そして、火鉢の引出しから電車賃を出した。小さいひろ子は、あつい御飯をいそいでたべられないのに、会社の門限はきっちり七時で、二分おくれても、赤煉瓦の工場の入口からしめ出された。ひろ子の「電車賃は家内中かき集めた銅貨だった」けれど。そして「遅れた彼女はその日一日を嫌応なしに休ませられた。彼女たちの僅な日給では遅刻の分をひくのが面倒だったから。」
「まだ電燈のついている電車は、印袢纏や菜葉服で一杯だった。皆寒さに抗うように赤い顔をしていた。味噌汁をかきこみざま飛んで来るので、電車の薄暗い電燈の下には彼等の台所の匂いさえするようであった。
 ひろ子は大人の足の間から割り込んだ。彼女も同じ労働者であった。か弱い小さな労働者、馬にくわれる一本の草のような」ひろ子の小ささに目をつけて言葉をかける労働者は「親しげな顔付をした。その車内では周囲の痛ましげな眼が一斉に彼女の姿にそゝがれはしなかった。彼等にとってはそれが自分たち自身のことであり、彼女の姿は彼等の子供達の姿であったから。」
 ひろ子たちの工場での仕事室は川に面した、終日陽の当らない、暗い室であった。「窓からは空樽をつんだ舟やごみ舟など始終のろ/\と動いているどぶ臭い川をへだてゝ、向岸の家のごた/\した裏側が見えていた。」そこに立ててある「広告板には一日中陽が当っていた。その陽の光は幸福そうであった」「その暖かそうな色だけが見える」寒く暗い板の間に、「腹巻をして、父親のお古の股引を縮めてはいている」どれも体格のよくない娘たちが、甘い匂いをたてて粉にまびれたキャラメルを小さい紙につつんでいた。「白い上着をき、うつむきになって指先を一心に動かしながらお喋りをしていた。みんな仕事の調子をとるために、からだを機械的に劇しくゆすっていた。」ひろ子は、年の小さいほかの二人の娘と一緒に一組とされ「みんなからはなれた室の片隅」に一台もって、「手元がまだきまらない調子で小さな紙きれにキャラメルをのせていた。」キャラメル工場では、毎日、女工たちの仕事の成績表をはり出した。優勝者三人に、劣等者三人。小さいひろ子は、いつも劣等者の中にかき出された。又工場は、女工たちの帰るとき一人一人の袂、懐、弁当箱の中などをしらべた。やがて、日給制がやめられて、一罐として賃銀を数えるようになり、女工たちは今までの「日給額に追いすがるために車をまわすコマ鼠のようにもがいた。」
「三時になると彼女たちはお八つをたべた。それは彼女たちの僅な日給の中から出された。それはいつも一銭にきまっている焼芋に限られていた。」その焼芋をかいに「白い上着をきて、まくり上げた裸の腕を前だれの下に突こんで、ちゞかんで歩く彼女たちの姿は、どこか不具者のように見えた。」
 大体、「女工たちはみな徒歩で通えるところに働き口を探す。」「しかしひろ子の父親はそんなことは考えなかった。その工場の名がいくらか世間へ知れていたのでそこへ気が向いたにすぎなかった。」小都市の勤人だった父親は、ひろ子を生んだ妻の死後、段々生活につまって「方針や計画は一つもなく」一家をまとめて上京した。「彼は酒をのみ、どなりちらして家族に当った。」父親の弟は病人でねていた。十二のひろ子が八時頃やっとかえって来て、七輪の上にかけられている雑炊鍋から夕飯をたべる頃、「しめ切った六畳の間でみんなが内職をしていた。」電燈の明りにその茶色の毛くずを舞い立てながら祖母が編ものの毛出し内職を、「隅の壁ぎわでは病人が床の上に腹這って」雑記帖の表紙になるバラの花や小鳥の絵を緑色の紙にかいていた。体を使う仕事に耐えないで失業している父親は、「ひろ子も一つこれをやってみるか」と何気なさそうな態度と言葉で、キャラメル工場の女工募集の広告のある新聞を
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