退して労農芸術家連盟を組織した。更にこの労農芸術家連盟は、同年十一月再分裂を行い、青野季吉、前田河、金子、葉山等は彼等の支持する山川均の「労農」派の影響のもとにプロレタリア芸術運動を置こうとし、藤森、佐々木、蔵原、村山等の人々は脱退して前衛芸術家同盟を結成した。ここで、当時の日本には、半年前に分裂して出来ている日本プロレタリア芸術連盟とともに「マルクス主義の旗の下に」たたかうと称する三つの芸術団体が併立することとなったのである。
 混乱しながらも絶えずプロレタリア芸術理論を前進させていたこの三つの芸術団体は、一九二八年(昭和三年)三月十五日に行われた全国的な左翼の弾圧(小林多喜二の作品「一九二八年三月十五日」はこの事件に取材された)の後、政治的立場を一つにする『前衛』と『プロレタリア芸術』だけが合同して全日本無産者芸術連盟となり、その機関誌として『戦旗』を創刊した。この団体が発展して一九二八年十二月に全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)となり、プロレタリア文学団体は日本プロレタリア作家同盟として、雑誌『プロレタリア文学』を発刊しながら一九三一年十月頃日本プロレタリア文化連盟の参加団体となった。一九三四年二月、作家同盟は大衆組織までを対象としはじめた治安維持法の圧力のためまた文学団体として当時もっていた様々の矛盾、困難な内部事情のため解散したのであった。
 このような多忙をきわめた理論闘争と組織更えの間に、プロレタリア文芸の理論は一歩一歩前進し、一九二八年雑誌『前衛』による蔵原惟人の論文「生活組織としての芸術と無産階級」で、はじめてプロレタリア文学の創作方法の問題がプロレタリア・リアリズムの提唱としてあらわれた。同じ人によって訳されたファジェーエフの小説「壊滅」は、ロシアの国内戦時代の大衆の闘争を、その現実につき入って描いた作品としてリアリズム論にふれた一つの典型を示すものであった。グラトコフの「セメント」、リベディンスキーの「一週間」等の小説のほか、マルクス主義芸術理論叢書としてプレハーノフ『芸術論』、同『階級社会の芸術』、ルナチャルスキーの『芸術の社会的基礎』などが出版されていた。『戦旗』には小林多喜二の「一九二八年三月十五日」、徳永直の「太陽のない街」等がのって、日本のプロレタリア文学の大きい前進を示した。一九二九年には小林多喜二の「蟹工船」がかかれ、中野重治の「鉄の話」、黒島伝治の特色ある反戦的短篇があらわれたのもこの時代である。
 殆どすべてが二十代の精鋭な新進によって押しすすめられていたプロレタリア文学運動の動きは、どんなにそれの未熟さを悪罵しようとも、旧い文壇にとっての脅威であることはかくせない事実であった。大震災からのち、沈滞した既成文壇では、自己批判がおこって、文壇の沈滞を打破せよという声となった。しかし、これらの人々は文学の旧さ、生活と文学とに対する陳腐なくりかえしを、何の力で、どういう風に打破すればよかったのだろう。佐藤春夫は、作家の経済的基礎の改善を云った。それに対して中村武羅夫は、作家の日常生活が余り常識になずんで、人生に対する冒険心を失ってしまっている点をあげて論じた。だがその中村武羅夫は、民衆の芸術時代から、最も頑固な芸術至上主義者であり、小市民的常識に反抗する文学に反抗しつづけて来ている人ではないだろうか。旧い文学からの脱皮は、話題となりつつ、各作家にとって真実の精魂を奮い立たせる熱情とならず、却って、久米正雄その他の有名作家の一団が麻雀賭博の廉で召喚されるという有様であった。
「貧しき人々の群」でロマンティックな人道主義に立って出発した中條百合子(宮本)は、ごく自然発生に生活と文学との統一的な成長を欲求しているばかりで、直接プロレタリア文学の潮流については何も知らなかった。五六年間の封鎖されたような結婚生活の中で苦しみ、やがて離婚して長篇「伸子」を書いていた。
「伸子」の作者よりも、より知識的な生活環境をもっていた年上の野上彌生子が、無産階級文学の運動にある注目をはらい、「邯鄲」などを書いたのに比べると、「伸子」の作者は全く何も知らず、従って無産階級芸術運動に対する批判も反撥ももたなかった。「伸子」の作者は、階級というものを観念として知らなかったばかりでなく、自身のうちに自覚していなかった。そしてただ、その熱望のさし示すままに、一人の若い女性が、中流の常套と社会通念の型を不如意に感じ、そこから身をほどいて一個の人間であろうとする「伸子」をかきはじめたのであった。
 網野菊の「光子」が、過去七八年間の作品を集めて出版されたのもこの時期であった。幼いとき生母に悲しい事情で生別した光子という少女が、下町の町家暮しの環境のなかで、高等教育もうけながら、日本の伝統の深い複雑な家庭のいきさつに揉まれながら、次第に一人の女として成長して来る生活のいろいろの断面が語られている。志賀直哉に師事したこの作家の作風は、甘さと誇張のない地味な、要約してリアルな描写力をもっている。婦人作家に共通な多弁や情緒の誇示、ポーズのない純潔な筆致であるけれども、その筆致に力を与え、テーマを人間的に一段高める気魄、常識以上の人生への態度のつよさが不足している。そのうらみは「光子」にも感じられた。
 昭和二年七月におこった芥川龍之介の自殺は、そういう時代の空気に深刻な衝撃をもたらした。彼はプロレタリア文学運動に対して単純な保守ではあり得なかった。単純に反動であり得るために芥川龍之介は聰明すぎた。「敵のエゴイズムを看破すると共に味方のエゴイズムをも看破する必要」と云い、もし善玉、悪玉に分けてしまえるならば「天下はまことに簡単なり。簡単なるには相違なけれど――否日本の文壇も自然主義の洗礼は受けし筈なり」という附言とともに、「蒼生と悲喜を同うするは軽蔑すべきことなりや否や。僕は如何に考ふるとも、彫虫の末技に誇るよりは高等なることを信ずるものなり」と云った。同時に「新感覚派」の試みに対しても、芥川龍之介は、芸術上の冒険の一つとしての注目を示している。
 彼は、自身の日常生活にある旧套の重荷についても知っていた。しかしながら、彼はその気質から、例え彫虫の末技に誇るよりは高等なる本質を認める文学の傾向に対しても、やはり最後には、自身の知的な優越に立って無限の皮肉を含みながら「唯、幸に記憶せよ。僕はあらゆる至上主義者にも尊敬と好意とを有することを」と云わずにいられないものを持っていたことは、悲しき彼の矛盾であった。同時代人の知っているほどのことなら知らぬことなく知ろうとする芥川龍之介の負けずぎらい、同じ時代の久米正雄、菊池寛等が大衆小説にうつり、菊池の「文芸春秋」などが企業として伸びてゆくのに対して、あくまで芸術的な短篇作家としての境地を守り、「玄鶴山房」のような作品を生み、やがて「歯車」「或る阿呆の一生」などを書いていた。ゲエテのみならずあらゆる傑出した万人を気取るものなりと、諧謔のうちに本音をはいている彼として、如何なる力を奮い立てれば新しい歴史の頁から溢れはじめた澎湃たるプロレタリア文学運動に対してその天才主義を完うすることが可能であると思えただろうか。
 遺稿となった「或旧友へ送る手記」の中で彼は次のように書いている。「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」
 その「ぼんやりした不安」というものこそは、プロレタリア文学から云えば前時代の本質に立つあらゆる既成作家の胸底に投げられていた痛切なかげではなかっただろうか。都会人の感覚とインテリゲンツィアらしい鋭さ、もろさをもちつつその明敏のゆえに自身の矛盾をごまかせなかった芥川龍之介の三十六歳の死は、有島武郎の場合とはちがったより知的な、知識階級にとってより歴史的な衝撃で人々をうったのであった。
 島崎藤村は、芥川龍之介の死後一年において、昭和四年から、現代文学の一つの記念碑となった「夜明け前」を執筆しはじめた。これはすべての旧いものを押し流すかのように流れはじめたプロレタリア文学に対していかにも藤村らしく、奥歯をかみしめて顔つきはおだやかな抵抗の示しかたであった。藤村は明治維新というものを、馬籠の宿の名主一家の生活に集注して、維新というものの中に生きのこった封建性の側から、執拗に描きはじめたのであった。
 このような激しい新文学運動の波動につれて、日本の婦人作家も、その本質に変化をもちはじめた。年齢で云えば何かの形で第一次大戦後の経済波瀾をうけた一家の中に少女期をすごし、そのことによって境遇上にも平坦な道を失った年代の若い婦人たちが、文学に登場して来た。宇野千代が作品を発表しはじめてから、つづいて中本たか子が新感覚派風の作品から次第にプロレタリア文学に接近しつつ精力的にかき出した。長谷川時雨の主宰した『女人芸術』が全女性進出行進曲を募集したとき、当選した松田解子が、伊豆の大島から上京して、プロレタリア作家として詩と小説を書きはじめた。
 平林たい子の「施療室にて」が、『文芸戦線』にのって、その野性的でつよい筆力を注目されはじめたのは一九二七年頃のことであった。自分の通っていた女学校のある長野県上諏訪町の書店で、赤いバンドをかけた一冊の雑誌を初めて見て平林たい子の受けた刺戟と驚異。埋もれる天才と環境との問題へ目をひらかれ、ひいては女の社会条件とその関係へと心をひろげられて行った過程。「交換手見習」として上京してから二三年のうちに、いつしかアナーキズムの流れにまきこまれ朝鮮や満州を放浪した。その生活をきり上げて文学に精進しようとしていた時代の彼女の窮乏生活、畸形的な探偵小説を時々『新青年』に売ったりしつつ、平林たい子は『文芸戦線』のグループに近づいた。そして彼女の文学的一歩を印した「施療室にて」が生れた。
 一九二五年に書かれた「投げすてよ!」という作品は「色々な意味で苦しんでいた自分にもよびかけ、女性の新境地を描くことをもって」当時新しくおこったプロレタリア文学に「独特の生面をひらく決心をした」作品として、作者自身にも評価されている。「投げすてよ!」は、この作者の代表作である「施療室にて」などとともに、アナーキストである男と朝鮮、満州を放浪した時代の生活を描きつつそこから何かの方面へ脱け出て行こうとする一人の若い女性のもがきを描いたものであった。
 この作品に描き出されている男女の関係は苦しく混乱し、虚無的である。「布団で押えつけられるような息苦しい小村の愛がどろ/\と淀んでいたばかりであった。女をまもる為には、思想までを古着のように売飛ばす痴者を光代はしみ/″\と自分の傍に感じた。」しかし、そう感じながら光代はその夫について、大連まで放浪して行く。「腹の子はどうするか」「彼を失って自分の生活は果して幸福かしら」そんなことにも心をとられる「意力のない、男性の一所有物にすぎないはかない女を光代は驚いて自分自身の中に見た。」そのように自分を見ている作者の感情には、前途のない旅立ちの前、船つき場で荷物を乱暴になげとばしている「人足の動作にまで自分に訓えている意味を感じて」それを「フヽンと鼻でわらった」人生への角度なのであった。
 殖民地の鉄道会社でシャベルをもって働くようになると、小村という男はそこの経営主である義兄の気分に媚びて日常的に益々無意力になりつつ、その力ない鬱積を洩して何か書きちらしたノートを義兄に密告されてとらわれてゆく。お光! お光! と呼びすてられて姙娠の身をこきつかわれていた光代は、その家を追われ、婦人ホームへ身をよせる。「小村からは顔を掩いたいようなあわれみを乞う調子の手紙」が来るのであるが、光代は、自身に向ってあらゆる感傷を投げすてよ! と叫びかけ、自分の足の上に立った婦人としての道を進もうと決心する心持で、その小説は結ばれているのである。
 一九二七年にかかれた「嘲る」という短篇は、大正末から昭和のはじめ頃のアナーキストの群の生活感情、ものの考えかたを、そのうちに息づいた女の側からむき出しに描いていて、これま
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