家の地位を確立させるにつれ、彼によって俳味として理解されている一種のたたずまい[#「たたずまい」に傍点]が生活と芸術に定着しつつある様が見られた。
 このようにして、諸作家がめいめいの形で落着こうとしかけている傾向に拍車をかけたのは、改造社の計画になった現代日本文学全集その他の円本大流行の現象であった。日本の出版界としては未曾有の大広告、大競争をして予約を集めたいく種類かの全集によって、多くの既成作家が、彼等の単行本からの印税では嘗て獲たことのないぐらい纏った金をとった。それらの小資産めいた収入を得たことは正宗白鳥夫妻、久米正雄夫妻、吉屋信子などを外遊させもしたが、本質的には益々馴れた平常着の安楽なぬくもりにくるまれる生活へと作家を進めたのであった。
『文芸戦線』の発刊された一九二四年(大正十三年)には、雑誌『文芸時代』によって、新感覚派とよばれる一つの文学集団が形成された。横光利一、片岡鉄兵、川端康成、中河与一、今東光、岸田国士、十一谷義三郎等の諸氏が『文芸時代』の同人であった。このグループの主張するところは、文学の手法における平板な、自然主義風なリアリズムへの反抗であり、大戦後、フランスに現れた芸術上の即物主義、主観による外界の感覚的表現、物を動く姿に於て捉える近代性の強調等であり、大戦の後のヨーロッパにおこっていたキュビズム、ヴォナシズム、ダダイズム等の小市民的な芸術流派の影響を間接ながら蒙っていた。
 横光利一が、このグループの主張を極端にまで押しすすめた表現で「園」「ナポレオンと田虫」等を書いたのもこの頃である。
 主観的なリアリズムは、志賀直哉の作品でその山巓《さんてん》が示されていた。しかしその高き山の頂に住む静けさを愉しむような日常生活の条件は、これら後進の作家たちの経済にも文学的立場にももう失われている。さりとて、プロレタリア文学運動に身を投じることはこれらの人々の全く中流人らしい人生の見かたや、その習慣のうちに萎縮している心情の本質から望まなかった。単に文学の様式からだけ論じれば新しい無産階級の文学と云われる前田河広一郎、中西伊之助、宮嶋資夫等の作品が、自然主義風の描写から脱却していないところへ、この文学運動に反対して立つ一つのよりどころを見出した一団の人々は新感覚派という中間の芸術至上の集団として自分たちを結集したのであった。はじめに、新感覚派の集団に属し、後にプロレタリア文学の領域に移った作家片岡鉄兵は当時の有様を、率直に次のように云っている。「当時の文壇の実状として、私たちは、どんなに苦しくても既成文壇に順応して行っては、その亜流として埋れる他はないのだから降参するわけには行かなかったのである」けれども、この新感覚派の運動は「敗北した。世界観の確立において自信ある根拠を持たなかったからである」と。
 新感覚派を生み出した、進歩性のかけた中流気質のインテリゲンツィアと並んで、更に浮動的であった層が「知識の遊戯」としての探偵小説を勃興させ、大衆文芸を興隆させて行ったことも、当時の日本の社会と文化・文芸にあらわれはじめた歴史的な分裂を語って注目をひくところである。そして「知識の遊戯」である探偵小説の作家として、日本にはイギリスのように婦人作家が現れなかった事実も注目される。
 この時代になって、日本にはアメリカ、ソヴェト・ロシアなどの新しい文学作品の翻訳が盛に出版されるようになった。アプトン・シンクレアの「ジャングル」「ボストン」、エルンスト・トルラーの戯曲、リベディンスキーの「一週間」、ロープシンの作品など。特にシンクレアの作品は当時の日本の無産階級文学運動の進展に深く影響した。
 さきにのべたように、宮嶋資夫の労働文学論にしろ、前田河広一郎その他の人々の作品にしろ、自然発生的な圧迫されているものの痛苦と反抗を訴えたもので、シンクレアの作品のように客観的に、資本主義社会の機構の代表的な部分におこっている事件を各専門面から調査して、それを作品化すというような着眼はされていなかった。労働するものの文学であるから、自然工場が描かれ、労働の姿が描かれるという関係にとどまっていた。ところが、一九二五年十二月(大正十四年)日本プロレタリア文芸連盟が創立される前後から生産機構に関連した「調べた芸術」の提案がされた。同時に、従来の作品批評が、批評するものの主観的な印象にだけ根拠をおく内在的な批評であったのに対して、作品批評は批評するものの主観をそのよりどころとするべきではなくて、批評するものの主観の外にある社会と文学との歴史的な現実関係の客観的真実を基準としてもつべきであると云われはじめた。そしてこの「調べた芸術」と「外在批評」を提案して、プロレタリア文学が、より客観的に社会真実にふれ得る創作態度と批評の一歩をふみつけた人が青野季吉であったということは、今日の読者に深い感慨を催させる事実であると思う。生活の発展と芸術の発展とを統一的な地盤の上に求めていたロシア文学専攻の評論家片上伸も、この外在批評の問題には深い興味を示した。
 有島武郎の悲劇的な終焉後、労働生活に入り「狼へ!」という報告文学を発表した藤森成吉は、一九二六年「無産階級文芸論」を「社会問題講座」に書いて、これまでのプロレタリア芸術理論で不明確であったいくつかの点を、整理した。第一、プロレタリア文学とは、貧困、反抗、労働などばかりを書く文学ではなくて、現代資本主義社会のあらゆる問題をとらえて題材とし得る。プロレタリア文学は、ただ題材や作者の出身階級によって生まれるのではなくて、「作者の精神の問題」である。プロレタリアとしての意識がかけているならば、題材ばかり労働を描いても何らプロレタリア文学ではないということ。第二、プロレタリア文学が労働者とその階級出身の作家によってでなければ生れないと考えることは誤っている。知識階級の作家であろうとも本当に現代の歴史の中でプロレタリアが担当している任務を知り、その立場に立つ者ならば、それはプロレタリア作家と云い得る。歴史のすべての例を見ても、「偉大なインテリゲンツィア出身の革命家が理論のみならず実行において、如何に働き献身し、実効をあげたか」労働階級が自分たちの文学を生みだす過程に知識階級は協力するものとして理解された。第三に、プロレタリア文学の形式の問題がとりあげられた。初期の自然主義的な手法にあきたりない金子洋文、村山知義などの人々はドイツの表現派の影響をうけエルンスト・トルラーやカイゼルに追随していたが、ルナチャルスキーが表現派を大戦後のドイツの小市民的感覚から発生した様式であるとした判断に賛成して、プロレタリア文学の様式は表現派でなければならないという一部の論に反対した。
 一九二五年十月(大正十四年)に『無産者新聞』が創刊され、二六年には労働農民党(略称労農党)が結成された。この前後のいきさつは河上肇の自伝の中にも興味ふかく物語られているが、この頃から、従来ひとくちに「無産階級運動」と云われていた解放運動のなかで、アナーキズムとマルクシズムとの対立がはっきりとして来た。労働組合の方では、労働総同盟が分裂して組合評議会が誕生し、労農党の分裂は右翼に社会民衆党をつくり、中間に日本労農党を生み、左翼に共産党の萌芽をもった。
 こういう動きは、芸術運動にも反映した。日本プロレタリア文芸連盟はトランク劇場の活動や漫画市場をひらいて評議会が指導した共同印刷のストライキを支持・応援したし、(このストライキの物語が、後に徳永直の「太陽のない街」として文学化された)連盟員は『無産者新聞』に文学的・美術的協力をした。自然発生の労働者文学と云われたものに対して、「調べた芸術」と云い、「外在批評」と云い、藤森成吉の文芸理論の推進と云い、いずれもより科学的に、客観的にプロレタリア階級としての文芸理論を確立しようとして来た人々は、主観的な反抗を爆発させるアナーキズムとおのずから分離し、一九二六年(大正十五年)日本プロレタリア文芸連盟の第二回大会では再組織が行われた。そして日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)となり、『文芸戦線』もアナーキストとして態度を明瞭にした村松正俊、中西伊之助等が中心を退いた。思想的雑居の状態で共同戦線をもっていた初期のプロレタリア芸術運動は、発展につれて基本的な階級の観念とその闘争の具体性を把握しはじめ、アナーキズムと訣別することとなった。画期的な意味をもつこの現象に直接影響したのは、青野季吉によって『文芸戦線』に書かれた「自然生長と目的意識」という論文であった。この「自然生長と目的意識」という論文については、今日の読者にとっても十分関心をもたれるべき理由がある。この論文は、青野季吉の善意の所産であり、プロレタリア文芸理論に歴史的役割をもったにもかかわらず、当時彼が翻訳していたレーニンの「何を為すべきか」の政治理論をそのまま芸術運動にあてはめて来て立論したところに、重大な未熟さがあった。「目的を自覚したプロレタリア芸術家が自然生長的なプロレタリアの芸術家を、目的意識にまで引上げる集団的活動」という主張となって、芸術の芸術としての条件と機能とは見落されたのであった。この青野季吉の論文がモメントとなって、ひきつづき『文芸戦線』『プロレタリア芸術』に発表された谷一、中野重治、鹿地亘、久板栄二郎等の論文は、「ただ青野季吉の政治理論を福本の政治理論によって代えたものにすぎなかったのである。」一九二九年にこう批判しているのが、蔵原惟人であることに、注目しなければならないと思う。蔵原惟人はつづけて云っている。「だから『目的意識』がこれらの人々によって芸術作品に応用されるや、それは所謂『政治的曝露』や進軍ラッパの理論となり」「事実上芸術の否定にまで到達したのである」と。
 一九三四年、プロレタリア全文化運動が弾圧によって崩壊しようとしたとき、日本プロレタリア作家同盟が書記長鹿地亘の執筆による「日本プロレタリア文学運動の方向転換のために」「文学運動の新たなる段階のために」を発表した。その前後から、作家同盟内には、既に獄中にあった蔵原惟人、三三年二月に虐殺された小林多喜二等に対する「政治的偏向」の非難がわき立っていて、三三年頃に発表された殆どすべての論文には、前小冊子と同じに蔵原惟人などの指導上の誤謬ということをあげないものはなかった。検事局の求めるその誤謬指摘[#「誤謬指摘」に傍点]によって、実に多くのプロレタリア文学者の政治と文学の階級性抹殺に役立てたのであった。僅か四年前「プロレタリア文芸批評界の展望」の中で、「目的意識論」の功罪を明瞭にして、芸術の芸術としての独自性を語っている蔵原が、もし発言する自由のある境遇にいたら、果して、あれらの批判は存在し得たであったろうか。些細に見えるこの点が、今日くりかえして一般の前にとりあげられなければならない真面目な一つの理由がある。一九三三年以後十二年間、全く暗黒のうちに埋められてしまっていたプロレタリア芸術理論は、その期間に当然行われなければならなかった検討も発展もとげないまま、いきなり一九四五年八月以来の民主主義文化運動と接続させられた。必要な文学史的回顧展望が行われていない。その上、三三年当時の文学団体にあって獄外に活動をしていた人たちは、あれほどの多弁さで、「政治的偏向」を非難した自身たちの歴史的未熟さについて、今日系統だてて客観的に自己批判していないし、問題を今日の必要にまで推進させていない。そのために、今日の所謂民主主義文学発言者の一部には、例えば平野謙の場合のように、信じられないような判断の混同と評価の錯倒さえ生じているからなのである。
「目的意識」の問題をめぐる論争が契機となって、一九二七年六月(昭和二年)日本プロレタリア芸術連盟は、遂に分裂し、福本の政治理論に立って芸術至上主義と政治闘争主義とを機械的に結合させる傾向の中野、鹿地、江馬、佐野硯等は残留し、藤森成吉、蔵原惟人、佐々木孝丸、村山知義、田口憲一、青野季吉、前田河広一郎、金子洋文、葉山嘉樹、小堀甚二等は脱
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