謡曲から取材した「藤戸」「邯鄲」「綾鼓」というような作品を書かれていることは興味ふかい。邯鄲夢の枕の物語が語っているとおり、当時の未熟な荒っぽいインテリゲンツィア否定論などに対して、この作者は、そういう熱っぽいいきりたちもやがてさめる夢であろう、という暗喩を示したものと思われる。野上彌生子は新しい文学理論との論争に加わらず、終始あくまで文学に固執し、そのリアリスティックな描写でこの作家の代表とされている「海神丸」を執筆したのは、大正十一年であった。漁夫の漂流の恐ろしい経験をとらえて、死とたたかう人間が、仲間に対しても人間らしさを守りぬこうとする奮闘のいきさつを写実的に描いた。この時代の野上彌生子は写実的な手法を益々磨いてゆくとともに、主観のうちに知識的な或は哲学的な均衡を保って、両性の課題をもふくむ社会事象を一段高い作者の見識とでもいうところから、自分としては性別からも超脱したような立場と態度とで扱ってゆく傾向を示していた。
大橋ふさの感想集が一抹のモダーニズムの味をもって出版されたのもこの時代であった。
注目すべきは、この新しい時代の底潮が、従来の婦人作家と異った社会生活の環境から、何人かの新しい婦人作家を送り出して来たことである。
「脂粉の顔」という短篇小説が時事新報の懸賞に当選して、藤村千代(宇野)という作家の名が人々に記憶されはじめたのは、大正十年のことであった。
貧しく若い一人の女給が、ひいき客から競馬に誘われ、自身としてはきおい立ち勢一杯の期待で出かけた。ところが、その客は一人の美しい自信ありげな女性を連れていて、女主人公は自分にだけ分っている自分の気持で切なく苦しむという短い作品であった。が、婦人によって書かれた作品の世界に初めてくりひろげられた女給生活の断片や、色彩の濃い筆致が注目をひいた。つづいて「墓を発く」という重く苦しい家庭関係を描いた自然主義的ではあるがリアリスティックで本気な作品が発表された。やがて離婚して宇野千代となり、二年三年と経るにつれて、リアリスティックな傾向と混りあって、この婦人作家の他の一方の特色としてはじめから現れていた抒情的デカダンスとでも云うような傾向が、作品の基調をなすように変化して行った。生活に対する虚無風な態度とそれをあやどる女心というようなものが、作品世界の調子として自覚的に扱われ、この婦人作家が情痴と貧困とを語る芸術の方法となって行った。
宇野千代は、これまでの婦人作家たちとは全くちがった生活の環境を通った人、又通っている人として当時の文学の分野に出現した。田村俊子がアメリカへ去ってしまってから、文壇と文学愛好者たちとは、田村俊子がその肉体と文学とから発散させてあたりに撒いていたような色彩と体温とを失ったままでいた。宇野千代がその作品中で「もっと困っていたのだったら屹度淫売をしただろうと思えるような困りかたであった」と云う女としての生活の苦の語りよう。だが「貧乏が苦にならない」「その上に彼女は性来の怠け者であった。そして怠け者に賦与された或る本能を持っていて」それに導かれつつ時々の世わたりをしてゆく我から捨てたような風情。しかもその一面には、ほかに着る物一枚なくて男のどてら姿で往来を歩いていても「私は仕方がなくてこんな恰好をしているのじゃないのよ、唯ほんの物好きでやっているのよというようなしぐさをするのであった」という自分の姿の眺めかた。それらは、野上彌生子にも小寺菊子にもない線と色調と人生に向っての身ごなしであった。
田村俊子は、その作品を感覚と情痴とで多彩にもりあげたが、そこには女として自分の肉体と情感とを旧い男の支配力に向ってうちかけ、主張してゆく形としての現れであった。所謂女の我ままは、女性のこの社会における存在権の表現として、十分にその場所をとっており、狂暴をさえ男、世間の平俗さに対して女の感情の燃え立つ生活力として肯定されていた。
けれども、谷崎潤一郎のネオ・ロマンティシズムさえ徒に情痴に堕したこの時代のエロティシズムへ、婦人作家としての特徴をすすめて行った宇野千代の、新しさの要素、魅力の要素は、田村俊子の示したものとは正反対のものであった。女の愛らしいもろさ、人のよいようなはかなさ、嫋々《じょうじょう》たるところを近代の脂粉のなかに我から認めて、女としてそこへ我が身をもたせかけ行くポーズにあった。男と野暮に言い争ったりしない女の提出であった。この作家は文学的自伝「模倣の天才」の中で次のように云っている。「恐らく瀧田氏(当時『中央公論』の編輯者)は私が、あの給仕女であった私が小説を書いたということに興味を感じてあれを読んでくれたのであろう。給仕女が小説を書く。それはどこかの育ちの好いお嬢さんの書いたものよりも確かに六割方とくであるに違いない」と。そして、素手で貧しくて自分の手足や小さい才覚で此世を渡って行く女の境遇というものを、そこから人間らしく脱却しようとする方向においてではなく、そのままとく[#「とく」に傍点]な文壇ジャーナリズム文学の一つの商標として人と我とに肯定させている。又「同じ意味で、私はいま自分が男でなくて、女であることをさえ幸運だと思っている」とも云われている。「女であることの幸運」が、その後、「色ざんげ」を文学活動の頂点として雑誌『スタイル』の社長となっている今日のこの婦人作家にもたらしているものはどういうものなのであろうか。
一方に無産階級文学運動の擡頭があった時代の現象として、この宇野千代という婦人作家の歩みぶりを眺めた場合、今日においてもその意義を失わない示唆がくみとられると思う。
従来の文学にあきたりないインテリゲンツィアの急進性と大衆生活への階級的自覚が、無産階級文学運動をまきおこし、その社会の雰囲気に点火されて、宇野千代の作品も現れはじめた。それにもかかわらず、宇野千代自身は、当時やはりまだ自身の貧困、女の世わたりのむずかしさのよって来る社会的な理由を十分につかんでいず、意識的にか無意識的にか、例えば野上彌生子のアカデミックなリアリズムなどに対して批判をもつ男の側に身をよせ、同時に、無産階級芸術論も御勝手に、私は女で幸運だった、とその社会的雰囲気だけをみかたとする態度をとった。これで結構やってゆける、という計画で自分の女らしさに立ち、ジャーナリズムとその消費者に結びついて行ったのであった。
当時の無産階級文学理論が未熟であったことは、宇野千代の文学の立場と、それがこの日本の社会における婦人の文学であることこそ、婦人全体の課題としてひとしお真面目に検討されるべきであるという任務を自覚し得なかった現実にもうかがわれる。のち、数年をへだてて、一九二九年(昭和四年)『女人芸術』に「放浪記」を発表して、文筆生活を開始した林芙美子のその後の過程も、日本の文学にあらわれた、進歩的な文芸理論とその運動の進展に併行して、観察される一つの現象となったのである。
七、ひろい飛沫《しぶき》
一九二三―一九二六(大正末期から昭和へ)
一九二三年(大正十二年)の関東大震災は、日本に特有な自然の災害であったばかりでなく、日本の社会に根ぶかい保守精神と支配権力の暴力の、おそろしい爆発の記念であった。
東京中心の大地震、それにつづく大火災という災厄のごたくさまぎれに、朝鮮人の大量虐殺と社会主義者の殺害が、警察力によって行われた。無産階級文学運動に批判者としてあらわれていた平沢計七そのほか七名の人々が、亀戸警察署で殺されその死体は荒川堤にすてられた。アナーキズムの指導者として、クロポトキンの「革命家の思い出」ロマン・ローランの「民衆芸術論」の翻訳などのあった大杉栄がその妻伊藤野枝と幼い甥の宗一と一緒に、憲兵隊につれてゆかれ甘粕憲兵大尉とその部下によって縊殺された。そして、三つの死体は古井戸に投げすてられた。日本の民衆の自由、独立を求める精神を圧殺した治安維持法の発端は、震災の時に山本内閣によってつくられたのであった。
一九二三年九月におこった、自然的災害というよりもむしろこの社会的反動の暗く野蛮な現象は、一般の文化人を非常に恐怖させた。当分は、雑誌も出ないであろうし、小説などというものの存在さえ可能を失うのではなかろうか、という恐慌的な意見も、作家の間に生じた。大杉栄一家を殺し、平沢計七その他を殺した権力の暴力はその後二十二年間に亙って存続し、益々陰険に多くの犠牲者を出しつつその活動をつづけたが、出版事業の方は次第に恢復し、作家の活動は再開したのであった。一九二四年の六月頃には、震災と反動の波の下でつぶれた『種蒔く人』の後身である『文芸戦線』が発刊され、二五年の中頃からは、再びプロレタリア文芸運動も前進をはじめた。
ここで、第一次欧州大戦後の日本の文壇がどういう状態におかれていたかということを改めて見わたす必要がある。
第一次大戦中からひきつづく好景気と物価騰貴につれ、一般に作家の原稿料がひき上げられた。一九一八年に、米が一升五十八銭になったために富山の漁民の妻たちがその烽火をあげた米騒動が全国に波及した。一方では、内田信也その他の戦時成金が出来て、純金の足袋のコハゼをつけて誇示する有様もあった。所謂好景気につれて、出版企業も急速に大きくなる方向を辿り、従って、作家の原稿料もいくらか高騰したのであった。
「無名作家の日記」から発足して多くの短篇をかいていた菊池寛は、大正九年朝日新聞に「真珠夫人」を連載して、好評を博してから、段々と新聞小説に移りはじめていた。菊池寛の「屋上の狂人」と「恩讐の彼方に」そして、「忠直卿行状記」は、作品を貫く人生への態度がそれぞれに相反した本質のものであった。「恩讐の彼方に」は人間的行為の純粋な理想への憧憬を示し、「忠直卿行状記」では人間関係の、社会的地位に害されない真実さが求められた。「屋上の狂人」は、狂人なりにそれに満足しているものなら、何故はたのおせっかい[#「おせっかい」に傍点]でその平安を乱す必要があるか、というバーナード・ショウ風の常識を語っている。この時代から彼の「屋上の狂人」に示されている常識が伸長されはじめた。久米正雄が「破船」などの通俗小説で、大衆作家としての存在へ一歩を踏み出したのもこの時分のことである。大戦後、急に膨脹したジャーナリズムの資力と形態とは、このようにして当時中堅作家と云われた作家たちを、大幅に通俗小説の領域に吸収して行ったのであった。
同時に、従来の文壇で流行作家と云われていた人たちの活動にはおのずからその発展の限界が見えて来て、震災を境として、著しく停滞しはじめた。
「暗夜行路」前篇を終った志賀直哉は大正十四年ごろから「山科の記憶」その他の短篇を書きだした。作品からの抜きがきをいきなり作家の生活の現実にあてはめて見ることは危険を伴っているが、「邦子」のなかで作者が語っている数行はこの時期の作者の現実にふれていると思う。「邦子」において志賀直哉はある芸術家の生活を描き、無事平穏な日常生活が文学者である主人公を苦しめている状態を描いた。「それが自分を成長さすものならば」という気持で「自然、何か異常な事柄を望むようになっていた」と。これは、当時のこの作家の或る感情を語っているであろう。異常なことを求めても、作中の文学者と同様に、志賀直哉は、擡頭して来たプロレタリア文学の新しい波を身にかぶるような経済的、教養的な必然は持っていなかったから、その人の環境らしい対象の恋愛に動いた。「山科の記憶」「痴情」「晩秋瑣事」等、そこに東京をはなれた京都暮しの時代の一つの世界が描きあらわされた。
「暗夜行路」と前後して「多情仏心」を完結した里見※[#「弓へん+享」、第3水準1−84−22]は、有島武郎の兄弟であっても、武郎とは非常にちがった常識と古さに自分のモラルの土台をかため、自身のまごころ[#「まごころ」に傍点]道にそろそろ安住しはじめた形であった。室生犀星の「庭を作る人」の出たのもこの前後の年代であり、貧しき詩人として出発した犀星は、流行作
前へ
次へ
全37ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング