、アナルコ・サンディカリズムの傾きがつよく支配していた当時の労働階級自身の政治能力、文化能力はまだ自身の階級の文化についてそれを自発的に提起するほどには発達していなかったのであった。これらの条件が組合わされて、当時の無産階級文学の運動は、自分たちの階級の中から文学創造力を引き出して来るような落着いた啓蒙・組織の活動よりも、寧ろ既成文壇に対する攻勢、既成の文学観念――「芸術の特殊性」「芸術の永遠性」への攻撃に重点がおかれる結果になった。当時はまだ、具体的な一つ一つの作品に即して新しい社会的文学的基準による批評、芸術における内容と形式との問題、芸術性の問題などを正当にとりあげる力をもっていなかったのであった。
それらの事情のために、当時のプロレタリア文芸運動は、雑誌その他の上では相当目立っていたが、一般大衆の生活とはごくかけはなれたものとなってしまっていた。その時分は実際運動という風に云われた組合の活動にしたがっていたサンディカリスト平沢計七が、プロレタリア芸術運動なんと云っても、実際には知識階級の一部のもので、大衆の実際には何の役にも立っていない、という非難を加えた。そういう批判の半面には、宮嶋資夫など自然発生の無産階級出身作家が、プロレタリア文学をつくるのは、プロレタリアでなければならない、とする機械的な主張があった。又プロレタリア文学であるにしろ、文学が文学として存在し、又持つべき文学としての機能があることを抹殺して、一面的に、階級のための思想的武器の目的ばかりが強調されたし、同時に、所謂実際運動と芸術運動との間に、階級的熱意の差別をおいて、本当に労働階級の役に立とうとするならば、実際運動に入るべきだ、という見解も支配的にあったのである。
無産階級の文学、プロレタリア文学の理論はそのように比較的迅い速力で一つの段階から次の段階へと推移していたが、当時書かれていた作品は、どういうものであったろうか。前田河広一郎の「三等船客」、宮嶋資夫の「金」、中西伊之助の「赭土に芽ぐむもの」などは、題材において、これまでの作家が扱わなかった領域に進出した。「赭土に芽ぐむもの」は、殖民地としての朝鮮とその民衆が自由をもとめるたたかいを描いたし、「金」は、無産者の側から資本主義社会の金融・株式市場を、「三等船客」は、色彩のつよい手法で太平洋航路の三等船客の姿を、上甲板の船客たちの華美贅沢と対立する社会群として描いた。けれども、それらの作品の筆致、創作の方法は、これまでの旧いリアリズムを脱し得なかった。それらの作家が、執拗に現実にくいさがってそれをあばこうとする熱情、それらの作家たちの生活と文化との来歴から来る丹念さ、自己主張のつよさなどは、リアリズムの手法として云えば、志賀直哉が主観的なリアリズムに於て到達した省略整理の方法さえも押しながし、その本質は発展の方向にあるが、一応の外見は却ってリアリズムを自然主義的なところへひき戻したようなあらわれをもった。このことも文学の問題としては、或る重要な意味をもった。何故ならば、プロレタリア文学運動そのものに反撥した小市民的知識人作家たちは、主として、この文学の創作されてゆく方法に斬新さが欠けているという一点にすがって、やがて一つの文学組織をつくったから。そして、そのうちのある人々の影響は、今日まで、日本の民主主義文学の多難な伝統と並んで、様々に変化しながら次第に害毒をつよめて、いつも対立物としての存在をつづけて来ているのであるから。
このようにして擡頭し、数歩をすすめて来たプロレタリア文学運動の萌芽に対して、武者小路実篤、中村武羅夫、生田長江などという作家は、明瞭に反対の立場を示した。これらの人々の云い分に共通なのは、芸術は階級闘争のそとに超然としているべきものであるということであった。又生田長江のように、歴史の推進力としてのプロレタリア階級の意味を理解せず、その協力者としてのインテリゲンツィアの進歩性の価値を理解せず「資本主義の社会組織によって虐圧汚毒されているのは無産階級ばかりであると考える社会観の不徹底さ」とその点に反撥した評論家もあった。
「社会主義をとりあつかった文学は、永遠性がないからいけない」(一九二一年)といった武者小路実篤は、当時「新しき村」をはじめた。人間同士が兄弟姉妹として強制のない協力生活を営み、各自がその肉体にふさわしい条件で一個の労働者としての技量を見につけ、自給自足し「個人が自由をたのしめる独立人として生きられる世界は一番いい世界」をもち来すために、「先ず自分の心がけも生活も労働もその社会にふさわしいものにし」ようと、「人間生活の研究処」としての村をはじめたのであった。この着想は世界の社会主義思想の歴史の中では十八世紀にフーリエその他の人によって試みられた空想的なユートピア思想である。先に『白樺』の動きについて述べたとおり武者小路実篤の人道主義は、はじめから主観的は汎人間天才論で客観的な社会発達の歴史の具体的条件に立っての究明から出発しているのでなかった。階級の観念が次第にはっきりして、文学運動にもそれが反映しはじめている時期に考えられ、又実現した「新しき村」は、最も率直に表現すれば、経済と精神の一種の薄弱者のよりどころとしてしか意味を存しなかったのである。
ワルト・ホイットマンの詩集『草の葉』を翻訳し、無産運動とその文学運動に対しても必然な発生の理由を理解していたのは有島武郎であった。同じ『白樺』でも武者小路とは全く反対であった。無産階級の解放とその新しい文学の主張を、有島武郎は人道主義に立つ一個の知識人としての自身の良心にとって決定的な関係をもつものとして受けとった。しかも当時の新しい文学の理論は、その成長の段階として多くの未熟な解釈をもっていたところへ、一上流人、一知識人作家として彼の当面していた個人の複雑な条件が絡んで、悲劇的に進行することとなった。
芸術家としての有島武郎を見るとき、彼の人道主義的な傾向は、武者小路実篤の場合より、遙かに複雑であり、内面的に鋭く相剋するものから発端した。有島武郎が、二十八歳のとき、教育者になろうか、文学者になろうかと迷ったということなどなかなか意味の深いことだと思われる。
明治十一年という時代に生れた武郎は、幼時から「出来るだけ欧米の教育」を授けられる一方、「最も厳格な武士風の庭訓を授けられ」、三十二歳の年、『白樺』創刊とともに作家活動に入る迄には、子供のうちから植えこまれている様々の内的矛盾に苦しんで、一度ならず自殺しようとしたほどの精神の葛藤を経た。大正六年前後から作家活動が旺盛となり、ヨーロッパ文学の系統に立つ構成力や、流達であると同時にやや講壇風なところもある表現の力強さ、重厚な描写の間に、この作家のきわだった特質である心のやわらかさ、感傷が、人類の愛の正義に立つ芸術家としての彼の作品に常に一抹の哀愁、甘さとして加わり、当時の若い人々、知識婦人などを魅した。
上流生活の面倒な環境と結びつきながら作家として有島武郎が抱いた人類のひろやかな自由と愛への憧憬ははげしかった。絶えず彼の内部に存在したヨーロッパ風の自由主義に立つ教養と家風にしみている武士気質の躾との間の衝突、そういう精神の桎梏を何かの動機で一気にかなぐりすてて、生のままの人間一人の生きる爽やかさをもちたいという抑えがたい欲求があった。その自己の苦悩と欲求から出立して、社会により合理的な人間生活の可能をもたらそうとする熱意は偽りなく、この人間的願望が、彼を無産者文学への理解者としたのであった。解放ということの意味を直感させていたのであった。「カインの末裔」「或る女」などと「小さき者へ」などの対比はこのことを語っていると思う。
執筆や講演に多忙を極めた四年間の疲労と、愛妻を失ってから、三人の息子たちの父として自分に律して来た日常生活の停滞感とが彼を襲っていたとき、新しい無産者文学理論が、彼に芸術家として自身の属している社会の層の本質について、烈しい反省を促したのであった。
当時プロレタリア文学理論はさきにふれたように、未熟で、文学の基盤を云うとき、個々の作家の出身階級や題材だけを現象的にやかましく階級的見地から批判して、有産知識人の進歩的な部分がもっている発展の可能や必然を理解し得なかった。人間というものが、偶然生れた場所、その階級から自主的に移ることの出来ない樹木のように見られた。有島武郎の「宣言一つ」は、様々の点で歴史的意味がある。当時のそういうプロレタリア文学理論の未熟さに向って、彼としての良心、激情性、感傷をうちからめ、無産階級の文学発生の必然を認めることはとりも直さず自身をこめて知識階級というものの成長の可能を否定するものでなければならないと考え、作家としての自分の存在の意義さえも最も受動的に固定させたものであった。この「宣言一つ」の中で、武郎は自分の出生、教育が、勤労する人々と同じでないから彼等にとって自分は無縁の衆生の一人である。新しいものになることは出来ないことだから、成らして貰おうとも思わない。彼等のために働くという「そんな馬鹿気切った虚偽も出来ない」と、彼は、当時の考えにしたがって、体で働いているものでなくては、どんな学者でも、思想家でも、歴史の進歩に真に寄与することは出来ないと考えたものであった。
今日になって見れば、有島武郎のこの考えかたの誤りは、全く当時のプロレタリア文芸理論家たちが抱いていた階級闘争と階級の関係、また文化との具体的な関係を見る上での未熟さを反映したものであった。文化・文学が、階級の動きとの関係で見られる場合、文学はただ従の関係でだけ見られて、文学がそれとして働きかけてゆく能動の機能は見落されていた。「宣言一つ」には、インテリゲンツィアのそういう歴史的な悲しい絶望がまざまざと浮き彫りされているのである。
「宣言一つ」は有島武郎自身にとっても前途への一つの暗い宣言となって、一九二三年(大正十二年)波多野秋子とともに、軽井沢で遂にその生命を絶った。
有島武郎と親交があり、ロマンティックな作風から次第に無産階級文学の中心に入って来ていた藤森成吉は、やがて二年の間、労働の生活に入った。その動機には、友人であった有島武郎のこの生涯の推移が影響したと見ても、不自然ではないであろう。有島武郎を死へ動かしたものを、藤森成吉は、知識人として発展の可能の方向へ新しい歴史の担当者であるプロレタリア階級により直接移行するために、当時の考えかたにしたがって肉体の労働生活の実践に入ったと見られる。この労働経験から「狼へ!」という報告文学がかかれた。その後文芸論では、嘗て有島武郎に「宣言一つ」を書かせなければならなかった階級の文化・文学上の理解について未熟であったいくつかの点を前進させた。一九二一年十月(大正十年)進歩的な若いインテリゲンツィアによって創刊された『種蒔く人』は当時唯一のプロレタリア芸術運動の組織的な雑誌であった。
この時代に、今日も猶歴史的な文献としての価値を失わない細井和喜蔵の「女工哀史」が書かれたのであった。
深く且つひろい社会の動きと文学の渦潮とは、次第に婦人作家の生活にも波及したのであるが、其の形には個々の婦人作家の生活態度が微妙に映った。
『青鞜』時代、野上彌生子はソーニャ・コ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]レフスカヤの伝記翻訳を連載して、読者をゆたかにするとともに、着実に自身の文筆生活と家庭生活とを時代の怒濤から守りつづけ、『青鞜』の朝夕をめぐった騒々しさに自分を捲き込ませなかった。
人道主義の時代に入るとともに、この婦人作家の生活に母親としての生活面が展開されて、大正初頭の「新しき命」「二人の小さい兄弟」などは、山の手の中流知識人の家庭の情景と、エレン・ケイ風に新しい生命を尊重しようとしている大人と天真な子供らの姿が、ヨーロッパ文学の匂いと艷とをうけついだ表現で語られた。
民衆の文学の理論の萌芽時代はどこまでもインテリゲンツィアらしいこの婦人作家に、或る精神の抵抗を感じたらしく、
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