。それ以来、次第に下降させられて来ていた一般の婦人の生活慾は、『青鞜』に到って、女の側から男の世界への要求として甦り、それが大戦後のこの時代になって、更に再びそれを自身の社会問題としてとりあげる婦人生活向上の欲求として、世界的な新しい光の下に現われたのであった。
 けれどもその『女性改造』や『婦人公論』が僅か数年の命脈を保っただけで廃刊されなければならなかったというのは、折角純粋な目的をもって創刊されたこれらの婦人雑誌は、『改造』『中央公論』社なぞの営利的利害から見れば、儲けがすくなくて損になったからである。『婦人世界』や『主婦之友』の所謂婦人雑誌の低俗さが日本の社会における婦人の位置の低さに巧につけ入りつづけたのであった。進歩的な婦人雑誌廃刊の事実と所謂モダン・ガールという流行語の発生とが、略々《ほぼ》時を同じくしているという社会的な事実は、何を語っているであろうか。
『青鞜』が廃刊になってから五年目の大正九年、平塚雷鳥が「新婦人協会」を創立して、翌年の議会には参政権や花柳病男子排斥案を請願したことは、興味がある。自我離脱の天才論を唱えていたらいてうも、今や妻・母としての現実から、日本の民法が女子というものをどんなに片手落ちに扱っているかをも切実に省察するようになって来たことがうかがわれる。結婚した女性が、妻となるや否や民法上無能力者とされるということも意外であるし、子供と母との断ちがたさに照らしてみれば、両親のうち父だけに親権が認められて、無能力者たる妻、母は、夫婦の財産に対する権利、親としての権利を持っていないことも、らいてうの疑問をよびおこした。彼女は嘗て「自分の住家というものは、いつも静かに安全に保ちたい」という理由で、『青鞜』の仕事を伊藤野枝にゆずった。今は中流人の妻として母として家庭を「静かに安全に保つ」ためにさえも、妻たり母たる婦人の一市民としての無力さが痛切に感じられて来たのであった。参政運動を否定していたらいてうがそのことには動き出した。これは、当時国民全般の要望であった普選の要求の波と切りはなせない関係であり、ガントレット恒子を、日本代表として万国婦人参政権大会に出席させたような世上一般の気運が坂本真琴の「婦人参政権同盟」その他いくつかの同種の団体を生んだ。「婦人参政権獲得期成同盟会」の成立したのは大正十三年のことである。
 このような動きにつれて、思い浮ぶのは福沢諭吉の「女大学評論」である。明治初頭の大啓蒙家の一人であった福沢諭吉の「学問のすゝめ」は明治五年に発表された。それだのに、「女大学評論」の公表されたのは漸々《ようよう》明治三十二年になってからであった。「二五歳の年、初めて江戸に出たる以来、時々貝原翁の女大学を繙き自ら略評を記したるもの数冊の多きに及べるほどにて、その腹稿は幾十年の昔になりたれども、当時の社会を見れば(中略)真面目に女学論など唱ふるも耳を傾けて静に之を聞くもの有りや無しや甚だ覚束なき有様」だったので、漸々彼が六十八歳の生涯を閉る僅か二年前の明治三十二年、「新女大学」とともに時事新報に発表したという事実は、深刻に日本の明治開化の非近代的な性格を反映している。自由民権論者の間に、男女平等は唱えられたが、その局部的な火は憲法発布の反動の嵐に消されて、明治は重い封建の軛をひいたままで進んで来た。
 福沢諭吉は「女大学評論」の冒頭で、先ず「女大学」の著者貝原益軒が社会的なあらゆる立脚点で「男女を区別したるは女性の為に謀りて千載の憾と云ふも可なり」と云っている。「女大学は古来女子社会の宝書と崇められ一般の教育に用ひて女子を警むるのみならず女子が此教に従つて萎縮すればするほど男子のために便利なゆゑ男子の方が却つて女大学の趣旨を唱へて以て自身の我儘を恣にせんとするもの多し」「女子たる者は決して油断す可からず」旧い女大学に対する「新女大学」で諭吉は、「日本女子に限りて是非とも其知識を開発せんと欲するところは社会上の経済思想と法律思想と此二者に在り」「其の思想の皆無なるこそ女子社会の無力なる原因中の一大原因なれば」と強調しているのである。そして、結婚は男女の相互的な理解と愛とに立脚されるべきこと、家庭の父と息子と娘との取扱いに差別を少くして、女の子の経済的安定を計り、適宜に財産も分配してやるべきこと、これからの婦人は、科学知識もゆたかにしなければ不幸であることなどを、懇切に熱意をもって主張したのであった。
 けれども、明治の支配者たちは、土台から日本民衆の自由と解放とを計画して出発したのではなかった。半封建的な土地制度と貧農の子女の奴隷のような賃銀によって儲ける繊維産業の上に立って、近代資本主義国の間の競争に参加しはじめたのであった。徳川支配の下に殿様であった島津、毛利などの藩主と下級武士と上層町人階級が、明治の日本のブルジョアジーと転身した。この事情は、市民社会を経て近代ブルジョアジーを成長させて来たヨーロッパ諸国の民衆の歴史とは、全く異った性格をもって、今日までの日本の社会と婦人の立場、働くものの立場に影響して来ているのである。
 ところで、先にふれた通り山川菊栄等が、大戦を転機として婦人問題の中心は参政権問題ではなくて搾取するものと搾取されるものと対立した階級社会における勤労階級として婦人労働母性保護の問題にうつったということを世界の趨勢として告げているのに、一方では、らいてうなどを中心とする中流婦人たちが参政運動に歩み出して来た当時の日本の現実にあらわれた二つの潮流は、注目すべき現象であった。
「あらゆる人間に人間らしい生活を」望むという大戦後の進歩的な世界思潮は、歴史的な凸凹の甚しいのが特色である日本社会の上にうちよせて来たとき、あらゆる凹みにそれぞれの特徴をもつ溜り水として残った。その一つの溜り水が、らいてうなどによって示された中流層の要求としての普選、婦選を醸し出し、勤労階級というものの自覚に到達した有識人・労働者群のところでは、勤労者たる自分たちの運命を改善しようとする社会主義的な希望に立たせ、普選や婦選をその目的に沿う条件の一つの具体化と見るようになった。そして、ひとくちに婦人と云っても、それぞれの属していた社会層と、その集団が歴史の進展をどう把握しているかということで、婦人の間にも社会的な立場というものが、次第にはっきりわかれはじめ無産婦人運動が擡頭したことは意味ふかい事実である。昔、堺真柄などを中心とする赤爛会が小規模な無産婦人運動のさきがけを示した。後、大正八年に総同盟婦人部というものが、労働婦人の利益を守って、組合の活動で当時婦人の、勤労婦人の向上を計るために作られた。大正十三年総同盟の関東同盟が分裂して、関東地方評議会となったとき、ここに婦人部が設けられ、無産婦人運動は、組合活動から政治的闘争にうつり昭和二年には左翼の立場をとる若い婦人たちによって関東婦人同盟が創立された。
 文化のひろい面にも、本質的な変化が現れはじめた。東京帝大文学部が初めて婦人聴講生を許可して、一部の好学の若い婦人たちの胸をときめかせた次の年、女子のための労働学校がひらかれた。
 時代はこのように一年一年と推移して、文学の面でも人間らしく生きようとする民衆の意欲が主張され明治以来の既成文学の本質が見直されはじめた。明治十九年に発表された坪内逍遙の「小説神髄」は十九世紀以後イギリスのリアリズムの流れを日本につたえ、馬琴の小説などが封建的なものの考えかたの典型としてその文学に示した非人間的な勧善懲悪主義を否定した。現実は、支配者にとって好都合な善と支配者にとって不都合な悪とに分けて見ることも考えることも出来ないものである。人間の本質は、二つのどちらにも固定して考えられるべきでない活きた肉体の中に動くと見る近代のブルジョア自由主義のリアリズムが主張されたのであった。その後の日本の文学はどんなに発展して来ているであろう。
 明治より大正中葉まで出現した殆どすべての作家は、大学出身者であった。夏目漱石、鴎外の文学は、学識の文学であり、大正初頭に才能を発揮しはじめた芥川龍之介その他『新思潮』を中心として出発した、当時の中堅作家たちは、いずれも文化と文学の貴族性が、何かの意味で身についている人々であった。けれども、人口の過半をしめる民衆の日々の生活と文化とはどこで漱石の作品と一致し、どこで芥川の文学に共感する現実をもっているだろう。既に吉野作造の万人の福利のデモクラシー思想の時代から、過去の文化、文学が支配階級のものとして生れ、民衆生活に無関係であることに対する反省がまきおこった。大杉栄がロマン・ローランの民衆芸術論を訳し、「民衆のための、民衆によって創られ、民衆のものである芸術」としてのより広汎な民衆の生活を反映するものとしての新しい文学が、待たれた。「民衆芸術論」がおこった。小川未明、加藤一夫などという作家は熱心な「民衆芸術」の提唱者であった。この民衆の芸術を求める動きは次第に、ぼんやり云われていた民衆というものをブルジョア階級に対立するものとして現代の社会にあらわれた無産階級としてはっきり認識するようになって来た。そして労働文学又は王、貴族、ブルジョアに対する第四階級たる無産者の文学を求める第四階級文学が提唱されはじめた。一九二一年(大正十年)頃労働者出身の作家として現れた宮嶋資夫が労働文学を、平林初之輔は、第四階級文学として、どちらも無産大衆の文化と文学とを求めたのであった。
 平林初之輔によって第四階級の文学が提唱されたことは、無産階級の文学理論における一つのはっきりした発展であった。第一に平林初之輔は、従来の民衆芸術論でぼんやり対象としていた民衆の本質を、比較的正確に、搾取されている階級プロレタリア「第四階級」と理解して、新しい文学芸術は、この第四階級のものであり、その声でなければならないことを明らかにした。第二は、真・善・美というものを、これまでの美学は一定不変の概念と思っていたが、そうではなくて、美しさの内容や感じかた、善と見る判断のよりどころ、真理とする理解の標準は、民衆芸術論の時期に考えられているように「万人共通の超階級的」なものではない事実を把握した。虐げられている大衆が、よりよく、より人間らしく生きようとして、その要求に立つ示威行進をするとき、要求される側のものの感情が、素直に自然にそれをよいこととうけとるだろうか。はりつめた思いで汗をたらし、行進して来る民衆の列を、現代の新しい美の可能と思って、妻や娘にそれを見せようと願うであろうか。行進が街に出現したその現実が、現代社会の対立の真実の一面であることがそれらの人々に諒解されるであろうか。第三に、第四階級文学の理論の中に、平林初之輔は「第四階級の芸術は(中略)反抗階級の思想的武器として生れるのだ」と云って、階級対階級の闘いとしての政治と文化との関係にもふれはじめたのであった。
 これらの無産階級文学の理論は、その後の発展から見れば、素朴であるしおおざっぱでもあるけれども、従来の文学の惰勢的な存在にあきたりない広汎の人々の共感を誘った。中心となっていた小川未明、秋田雨雀、藤森成吉、前田河広一郎、宮地嘉六、宮嶋資夫、内藤辰雄、中西伊之助などのほか、近藤経一、有島武郎などという作家も、この新しい文学理論の同情者であった。
 けれども、ここに決して見落すことの出来ない一つの歴史的事情がある。それは、当時提唱されはじめていた自然発生の労働文学、反抗文学、第四階級文学理論の中には、政治と文化との現実的な関係と、階級闘争におけるプロレタリアートとインテリゲンツィアの歴史的な役割についての具体的関係が、ちっとも科学的に究明されていなかったことである。しかも、第四階級の文学と云っても、その理論を組立て、その動きを主唱しているのは当時の急進的なインテリゲンツィアと、ほんとに自然発生に、偶然生れながらもち合わせた文才によって小説をかきはじめた無産階級出身の一二の人々であった。労働問題は活溌におこっていて、組合の組織もまとまりはじめてはいたものの
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