対する社会の関心は高潮に達した時期であった。『太陽』と『中央公論』とが婦人問題に特輯号を出した。『中央公論』のその号に、須磨子は「人形の家」を上演した感想と別に、「雌蝶」という短篇をのせている。幼い日の思い出物語であるが、親戚の御婚礼の日、雌蝶の役になったかつみという女の子が其の日雄蝶の役になった仙台平の袴の男の児に淡い魅力を感じ、はにかみと興味とをたがいちがいの稚い感情でその男の子のまわりに近より遠のく風情など、単純ではあるけれどもなかなか厚みと伸びと濃やかさのある筆致で書かれている。
 同じ年の六月、早稲田文学に「店の人」という須磨子の短篇がある。「雌蝶」よりはいくらか粗くて靭い筆致で、久江という「細かい縞の羽織に襟のかからない着物をグッと首に巻きつけて着て、帯の間からチラチラくさりの見えるだけが飾りの束髪頭」の若い女性が、義兄の菓子店へ遊びに来て、帳場で本を読みながら店番をしてやったりしている。お客がものを買ってゆくたびに店のものは「ありがとう」というのだけれど、久江はその云いかたを我知らずいろいろ観察したり研究したりしていて、一人の心持よい女客に自分が菓子を売ってやってのかえりしな、ひとりでに調子よいありがとうが唇から流れ出た。そのような情景を、写生風な文章で描いた小説である。
 須磨子の身辺がおそらくそのままに描き出されているらしいばかりでなく、今日の読者には、久江という女主人公が、いかにも深い興味をさそわれてこのありがとうの云いまわしを研究しているところが、その頃の須磨子の小説らしく面白く思えるのである。
 須磨子の芸熱心は、様々に彼女を批評した人々も認めずにはいられなかった一つの強い特色であった。それに、我を忘れてその役の実感に情熱をうちはめてゆく資質の傾向も独特で、例えば同じ文芸協会に女優として入った上山草人の夫人山川浦路の気質などとは、対蹠的であったと思われる。山川浦路は、文芸協会が創られた時、新しい日本の演劇のために献身しようとした草人を扶ける意味から女優の修業に立った。彼女の出身学校であった女子学習院はそのことで浦路を除名するという時代の絆に敢然と立ち向ったのであるけれども、芸術の道と女としての生活とは、彼女にとって一応一致していたばかりでなく、浦路は「実生活は実生活で芝居ではない」というけじめがいつもはっきりしている人であった。
 須磨子は全くそれと反対の天性で「ノラ」の稽古について語っているところでも「東儀先生の落付き払った金貸振りに、私はほんとにくやしくなって思わずのり出して読む」自分を示している。
 そういうむき出しの熱い気質であったから須磨子は抱月とのいきさつにおいては傍目の批評を蹴ちらしたような素朴な力で一杯に生きたのであったろう。
 私たちにとって、須磨子がそうやっていくつか短い小説も書いているということは、何か特別な感想を誘われることである。
 当時、新しい女優というものへの理想と希望、期待がどんなに初々しく混りけないものであったかということは、文芸協会の女優募集条件の第一に先ず性格と云われている点からも明かである。第一に性格を持っている女性、第二に芸術精進に可能な境遇の女性、第三頭脳、そして第四の最後に容姿が求められている。
 日本の近代劇の誕生は、新しい社会の生活感情の探求そのものの反映であったことがこの箇条にも語られている。女優になるということは、当時一つの女性解放の門であるとも感じられたので、田村俊子も切れ切れの時期ではあったが女優生活を経験した。
 森律子が大正二年に渡欧した折の意気組はまだ新鮮で、徐々に女優が商業化されたものになってゆく一歩が、無邪気に歩み出されていたのであった。
 大正初期に、このようにして日本の新しい劇運動が擡頭し須磨子のような女優を生んだ背景には、日本の資本主義経済力の一層の進出があるわけであるが、そのような時期に日本の、婦人劇作家というものが格別目立った文学的誕生を遂げていないことは、注目をひかれる。
 近代劇の移入は翻訳劇からはじめられた。シェークスピアやメーテルリンク、トルストイの翻訳劇からはじめられたのであったが、その頃はもうアイルランド劇の翻訳に手を染めたりしていた松村みね子などが、活動の場面を見出して行けなかったのは、どういう原因であったろう。
 長谷川時雨のいくつかの舞踊劇、木村富子の振事や世話ものが舞台にのぼされるのは、所謂旧劇の畑に個人的な伝統の連絡が保たれているからであって、小山内薫を兄としつつ岡田八千代の劇文学における活躍の流達を欠いていることも様々な感情を誘う。その後の婦人劇作家は岡田禎子にしろその他のより若い作家たちにしろ、容易に上演の可能を捉え得ないまま今日に来ている。それは何故だろうか。
 脚本は文学のジャンルとしてむずかしい立体性、客観性を求められるものである。日本の女性が社会の過去から負うて来ている様々の持ちものは、そのような文学のジャンルにおいて特に力の不足が露出して、佳作を生み得ないということも云えるであろうと思う。外国の文学の歴史にも婦人のドラマティストは実に稀であるのだから。
 けれども、他方には、女性の劇作家が生れ難くされているような社会の習俗そのものの最も伝統の重しのつよい、最もしきたりずくめの部分が、近代興業資本と結びついた芝居道であるということもその原因をなしている。
 劇作を試みて、いくらかその間の事情に通じたとき、若い婦人作家たちはそのように伝統や金力やに制せられた舞台裏の現実に失望すると同時に、やはり芝居を好む気持は捨てられず、その矛盾の間で自身の芸術への努力を一部は諦め一部恋着するアマチュア風の穴へはまりこむのではなかろうか。
 小山内薫の新劇運動の流れや前進座の劇団としての発展性は、その本質のなかに婦人劇作家の誕生を期待する要素をもっているのであるけれど、やはりまだ永く忍耐づよい明日が待たれなければならないのかもしれない。『青鞜』は雑多な文学の芽生をそこに萌え立たせ、吉屋信子も稚い詩で、岡本かの子もその和歌で、一つの時期をその頁で過したけれど、一人の婦人劇作家も生み出すことはなかった。ずっと後、昭和に入って『女人芸術』の出来た頃戯曲で出発した円地文子が、それから後に小説に移ってしまっている事実も、私たちに婦人劇作家の成長の困難さについて考えさせる一つの実例である。

     六、この岸辺には
          一九一八―一九二三(大正中期)

 日本の婦人の生活は、第一次欧州大戦終結を境として、各方面に大きい変化を生じた。「職業婦人」という言葉が出来たのも、この時代からのことであった。
 大戦後の日本は好景気を現出して、一時に膨脹した諸企業は、どんどん若い婦人たちをひき入れた。同時に、これまでにない物価騰貴は、一家の経済の必要からも若い女を家庭から職業へと歩み込ませた。これまで働く婦人と云えば、志を立てて上京し新聞雑誌の記者として働いている少数の特殊な人たちか、さもなければ電話交換手、女店員、あとは夥しい女工、女中で、これらの勤勉で無知のままに暮している同性たちへの関心は、一般の女のひとの心に決して目ざめていなかった。十年前の『青鞜』の動きは、婦人の社会生活への自覚に多くの刺戟となり、成長の足場ともなったが『青鞜』をかこむ若い婦人たちは、自分たちを新社会へのチャンピオンとして感じながら、目のつけどころはその人々の直接周囲の習俗、恋愛、結婚、家庭の問題の革命に向けられ、彼女たちの目の前には少し遠くあった勤労階級や農村婦人の一生、そこで挫かれてふみつけられた当時五百三十万人の女としての悲しい無言の訴えを、自分たちの声につづくものとして感じてはいなかった。
 第一次大戦終結の前後、ロシアの人民が悪夢のようなツァールの政権をとりのぞいて、世界にはじめて社会主義の社会を出発させ、他の多くの国々でも封建の要素のつよい王権を排除した。世界の理性は個人の幸不幸もその社会全体の幸不幸と直接関係していることを学んだ。これまで男対女の問題として個人生活の枠内で見られて来ていた軋轢、相剋、成長の欲望が、この時代に入ると所謂男女問題の域を脱して、はっきり帝国主義の時代にまで進んで来た資本主義社会の矛盾を生じる課題として、その社会的な動機原因にふれてとりあげられるようになって来た。そして、社会の動力として日々の社会的な労働に従っている人口の九割以上をしめる勤労男女の生活が、民衆の福利という民主主義及び社会主義の観点から考えられ行動されて来た。其につれて、婦人問題の中心は次第に参政権問題ではなくて婦人の労働条件、母性保護の問題にうつり、婦人がこれまで対男子の問題として来たすべての矛盾苦痛は、彼女たちの労力によって利得する階級とその利得を得てゆく方法とへ向けるものとして視点がのびて来た。例えば、女が一日一円以下の賃銀で九時間から十二時間働くから、男が失業するというような、働く男女が互に利害の上で衝突し合うような仕組みとされている現実に対しても、これまでのように働く女を働く男の邪魔と見ず、その根柢に横《よこたわ》る男女共通の勤労階級としての利害を理解して、しかもその上に、女の母性が必要とする様々の条件を見て行こうとする段階に歩み出して来たのである。
 婦人の動きのこの足どりは、当時日本ばかりでの現象ではなかった。大戦の間男に代って生産に従った婦人たちのイギリスでは、この戦争の後、婦人の参政権が認められた。アメリカの労働組合の活動に婦人が大幅に活動しはじめたのもこの前後である。
 当時約十七万人ばかりの「職業婦人」と呼ばれる層は、主として女学校や専門学校を出て、職業についたような若い婦人たちを包括し、その経済上の自立に向ってゆく感情も、彼女たちの主観では、やはりその頃社会の隅にまで漲っていた「あらゆる人間が人間らしく生きようとする世界の心」にこたえるものがあったであろう。『青鞜』時代を経た若い婦人たちが、いくらかでも旧い因習から解かれようと望めば、経済の上での自立なしにはそれが達せられないことを、生活の実際から、原因と結果との両面から自覚して来たのであった。
 ところが、このようにして、人生へ何かの希望をもって続々と職業に入って来た婦人たちが、その後のごく短時日の経験で、彼女達のとり得る報酬で現実に十分の独立生活は保ち難いこと、さりとて全く旧套に属した家庭内の空気にも耐えないこと、同時に働く女と云っても「女工」とはちがうものとして自分たちの上に見ている様々の小市民らしい色どりの多い気分などは、大正九年の大恐慌にひきつづく震災後の日本にモダン・ガールという一つの流行語を生んだ女群の存在の因子となったのである。その当時では、職業婦人の増大は、明らかに女の生活の社会的進出の活況とみられたのであった。
『女性』だの『女性改造』だのが、既に大正五年発刊されていた『婦人公論』などとともに、伸び拡がろうとする婦人の社会感、知識慾、芸術への愛好心を扶けようという目的で編輯され始めた。
 その時分の『婦人公論』は『中央公論』によく似た編輯で、一方の論説欄に婦人に関する諸問題をとりあげているのがその違いであった。『女性改造』は表紙も『改造』そっくりで、白無地に黒く「女性改造」と題字が刷られ、創刊号の巻頭言は、筆者自身の感動をあらわした文章で、婦人の解放のために、率直で正義そのものである言論機関としての同誌の発刊を告げている。内容も、ロマン・ローランの「日本の若き人々へ」を初め、婦人の職業と民法の婚姻に関する法律の問題、山川菊栄の婦人運動の新局面についての論文などをのせた。貞操の問題についても、科学的な立場で研究するという態度が示されている。
 それらは、どれも根本の心持では真面目で向上的な姉妹雑誌としての立て前に立ち、表紙も内容の扱いかたも無駄な飾りがすくなくて、いかにも婦人の生活発展への真率な期待に充ちたものであったことは、今日の私たちに、尠なからぬ感慨を与える。
 明治十八年に、巖本善治等によって『女学雑誌』が初めて創刊された
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