ら靠れて、本質においての受け身なところや、又愛とひとくちに云い表わしているその愛の質を見わける力はまだ十分になかったのではなかろうか。
 男と女とが偶然向いあった世界の中でだけ男と女との問題が扱われていた当時の限界は、おのずからこの婦人作家の上にも照りかえした。社会一般としてその限界がうちひろげられるには時代が反動的であった。その反動の半面に爛漫と咲き出したネオ・ロマンティシズムの芸術は、「あきらめ」に窺えるこの婦人作家の所謂女学生っぽい潔癖さ、追究心を育てるよりも、遙に容易に華やかに、彼女のうちに伝統となっている頽廃の一面を開化させた。芸術家として、作家自身余りすらすらとその道を歩いた。作者をめぐる生活と文学の情緒の渦は、ロマンティックな色を配合しながら、段々高まるよりは低まって行った。
「あなたなどと一緒になって、つまらなく自分の価値を世間からおとしめられるよりは、独身で、一本立ちで、可愛がるものは蔭で可愛がって、表面は一人で働いている方が、どんなに理想だかしれやしません」「女の心を脆く惹きつけることを知っていなくちゃ、女に養わせることは出来ませんよ。あれも男の技術ですもの。」
 田村俊子一人がこの過程を、経たのではなかった。谷崎潤一郎や長田幹彦などの耽美的傾向が、真にその養いとなる環境を持たないために次第に初めの清新さ、横溢性を失って行ったように、そして草双紙めいた情話物を書くようになったように、この作家も「小さん金五郎」を書いた大正四年の後二三年を経済と芸術と両面からの混乱苦痛に過して、大正七年、日本を去ってアメリカに赴いたのであった。
『白樺』が明治四十三年に創刊されて、日本の近代文学には、一種独特の溌剌たる生気がもたらされることとなった。
『青鞜』の出る一年前、自然主義文学の絶頂がややすぎた頃、武者小路実篤、有島武郎、生馬、志賀直哉、里見※[#「弓へん+享」、第3水準1−84−22]、長与善郎、木下利玄、柳宗悦、園池公致、児島喜久雄、郡虎彦等上流の青年たちによって発刊された『白樺』は、当時文壇的主流をなしていた「自然派の立場にあきたりない」この人たちの積極的な人間性の肯定の欲求から結ばれたものであった。
 自然主義作家によって描かれる人間性の高貴な可能の否定に対する若々しい反撥、単調瑣末な日常にかがまった人生態度へのあき足りなさ。それらは『白樺』同人たち共通の感情であった。『白樺』の人々は、武者小路実篤が云っているとおり、主義、主張が一つだというのではなく、めいめいがめいめいの立場をもちながら、それぞれの立場で「自分が情熱を感じて書けるものだけ書こうとし」「個人は個人に与えられた宝を出来るだけ立派にして地に生かして、そして死んでゆくことを人類は望んでいる。」「人類が全体として生長しようとする意志がある事実を認めること」を芸術の仕事への精励と不可分として感情に湛えていることで、自然派とは全く対蹠的な誕生をとげた。同時に『スバル』の象徴派とも、谷崎潤一郎などの色彩つよいネオ・ロマンティシズムとも、又、現実から一歩身を退かした漱石の文学態度とも別種の、人間の新しい肯定としてあらわれたのであった。
 個性の成長とその十分な開花の希望とを人類全体につたえたいからこそ仕事をするのであるという確信は、歴史の縦糸を辿れば、自然主義思潮に洗われて自己の目ざめを経た後でなければ、発生し得なかった動向であった。同時に、日本の自然主義が社会の伝統に風化されて、次第に小市民的な家庭生活の身辺描写に追い込まれて行ったのに対して、『白樺』は「殆どすべて食うことに困らなかった」上流青年の自己高揚拡大への意欲であるという社会的本質をも併せもった。
 自己を生かし抜いた人々として天才への曇りない讚美が『白樺』を一貫した一つの特色であったことも、以上の思想感情から肯ける。当時の日本の若い知識人の間に美術家としてセザンヌ、ゴオホ、ゴーガン、ロダン、文学者としてホイットマン、ブレーク、ロマン・ローラン、音楽家の人類的選手としてベートーヴェン等への熱愛が高められ、自然主義の自己検討の内向性は、個人のうちにひそめられている可能に対する人類への責任という見方へと、内面の真実を尊ぶ傾向へとに推進したのであった。『白樺』の人道主義は、当時にあって人生に積極なものを求めるあらゆる若い心を捉えたと云って過言ではなかったのである。
 ところが、今日顧みれば『白樺』の人々の人間性肯定とヒューマニスティックな意欲は、当時の日本文学に新鮮溌剌な気息を導き入れたにもかかわらず、自己のうちに人類の意志を感じるという場合、それは全く主観に立って云われていたものであったことも見落せない事実である。
 芸術家としての本心、実感というものは主観的に「自分としては」という角度から監視を受けたが、その本源的な自分というものの内容が社会的に考えられたとき、どんな生活環境の伝統と習俗と気風とを因子《ファクター》として成り立っている「自分」かという客観的事実については、考えられなかった。従って、『白樺』の人道主義の傾向は、主観的でロマンティックな要素を多分にふくんでいた。人間的欲求の真実に立って生れたことは事実であるが、その半面には、『白樺』の人道主義が、個性の完成を社会条件と照し合わせず、内面的の可能でだけ見るそのことに、明治四十年末から大正初頭にかけての日本の社会が面していた反動の情勢が如何ほど相殺の力で作用していたかという機微をもうかがい得る。
『白樺』の各人の主観的誠実は年を経るままに種々様々の風波を閲した。その中から有島武郎を出すとともに、里見※[#「弓へん+享」、第3水準1−84−22]のまごころ哲学の常套をも生み、武者小路の自在と云えば自在だが、現代の社会の様相の中では或る場合に悲しき滑稽としてしかあらわれない「生きぬいた人」の無軌道な評価の態度が講談社本の製作ともなって転化していることは周知のとおりである。
『白樺』と『青鞜』とは歴史の上で併行してあらわれたのであったが、『白樺』の人道的傾向は、婦人の歴史性についてどんな態度を示したろう。
 この人達の人生態度として、一応女性の人間性、女性の個性のゆたかで自然な成長を求め、互が人間として高まるモメントとして両性の結合をも見たのは動かせない事実であった。けれども、『白樺』の人々が、内心の問題として自分たちをとりかこむ封建ののこりの強い上流的或は公卿的日常から個性の人類的成長の翹望へ向いながら、朝夕の現実としては依然として生れ出た社会的環境の偶然にとらわれたままであったという事実は、『白樺』の人道主義が、そこにおのずから限度を置いたとともに、両性の問題に対しても新しい時代を画してゆくための重大な支障であった。
 男が人間として本心に忠実に生きなければならないとおり、女も自分の本心の声に従って生きるべきであることを、『白樺』の人々は当然認めざるを得ない。愛を貫くことで雄々しくあれ。運命を信じよ。武者小路実篤の初期の作品には、そういう意味で女の生活の主張を鼓舞したものがあるが、実に興味ある点は、それらの作品が、屡々殿様対侍女という人物構成で扱われていることである。そして信じよ、と云われる運命が男の運命であり、それを信じることによって女の運命もひらかれるという視点から見られていることである。自身たちの社会的条件のなかにある封建的なものとたたかうのに、封建的という語彙さえ知らなかった当時の若い人道主義者たちは、同時に自分たちのお尻についている痣として、自分たちの環境からしみ込まされている女に対する封建性を全く自覚しなかったということは何と深い暗示だろう。
『白樺』が、同人の中に社会的な出生を同じくするような若い婦人を一人も持たなかったということには、外見にあらわれている現象よりも深刻な歴史が、その蔭にたたみ込まれている。生活環境の伝統が上流の若い女のひとに、芸術を趣味以上につきすすんだ仕事とすることを許さなかっただろうし、又、『白樺』の人々の生活は、婦人の才能を、それとして自立させ人類的に成長させる手伝いをするよりも妹、愛人、妻、母として自分たちの生活を肯定してついて来る愛の道すじにおいてより美しく彼女たちの美と成長とを見ようとする傾向がつよかったことがよくわかる。
 これに対して、当時、社会的な生活の向上をもとめて熱烈な表現をしていた若い女性たちの多くは、地方から文化の中心である東京へ新生活を求めて出て来ていた人々であった。上流的というよりは中流の或は地主としての空気の中に生れた女性たちであった。そういう肌合いは、『白樺』の人々が身近く感じている女性と、言葉づかいからして違っているわけであったろう。『青鞜』のグループと『白樺』とが若い世代の動きとして共通した脈絡をもち得なかったことには、末期の『青鞜』に『平民新聞』廃刊後のアナーキズムの色が流入したからというばかりでない内奥の理由もある。この事実を、十九世紀後半欧州各国に萌え立った文芸思想運動の中で、若い男女がどんなに共同の動きをして来たかということに思いくらべると、日本の歴史の独特さについて深い感慨にうたれざるを得ない。『白樺』も『青鞜』もくりかえし、「運動」をおこそうとするのではないと、云っているところも、時代の陰翳として見られるのである。
 或る意味で『白樺』の影響をうけ、しかし女としての成長の過程では『青鞜』時代というものを全く知らないで、自分が「貧しき人々の群」を発表したのは大正五年の秋であった。ロマンティックな要素とリアリズムの入り混った人道主義の作風で描かれた窮乏の農村生活の絵であり、幼稚ながら、作家の生涯は、生活と芸術との現実的な推進の関係ではかられるべきものという理解に立った。生活そのものに向う動的な態度では、ホトトギス派を文学の苗床として成長した野上彌生子の現実鑑賞の態度とはおのずから質において異っていた。トルストイ、ロマン・ローランなどの芸術家としての生きかたに強く共感していたけれども、中流家庭の環境のなかで、自然に発生したそういう成長の意欲は、若い女の場合孤立的であったし、方向も定めがたいものであった。偶然のことから父につれられてアメリカへ行き、丁度欧州大戦休戦の前後、紐育にいた。そこでの感銘深い見聞は、漠然とした人道主義に対して一つの疑問を抱かせた。引きつづいて、より現実的な生活拡大の希望で結婚した。その結婚生活では、対手の生活目標とのくいちがいがあって数年に亙った苦しい生活の後、離婚した。そういういきさつの裡に、女として自身の抱いている人間的希望の社会的な関係、土台というようなものも徐々に作家として自覚されつつあったのであった。
 大正八年に当時名女優として高く評価されていた松井須磨子が自殺した。
 芸術上の指導者であり愛人であった島村抱月が死んでから後一年の生活が、遂にこの情熱的な女優に死を選ばせるに到った動機は何であったろう。我儘一杯にふるまって来た彼女が、身をもてあました結果とだけ見るのは皮相である。島村抱月は新しい演劇運動の指導者であったばかりでなく、婦人問題についても、系統立った真面目な見解をもっている人であった。須磨子は舞台に情熱を傾けつつ、「『人形の家』を人間の家とするの」は、抱月在って初めて可能なことと思えたであろう。その抱月は急死し、芸術座の経営の困難と、自身の女及び芸術家としての成長の苦難は余り巨大に目前に迫った。その半身は芸術的にも成人しており、又成人として現実生活に当ってゆかなければならない必然にさらされつつ、猶その存在の奥に過去の社会の重い暗い感情を内部のものとしても持っている日本の一箇の女である須磨子の自殺は、積極的な精神と肉体とがその深刻な矛盾に向ってうちよせて来る力に抗せず、倒れた悲痛な姿と見えるのである。
 須磨子がいくつかの短い小説を書いていることを人は記憶しているだろうか。
 大正二年という年は、『青鞜』創刊から三年目、丁度坪内逍遙の文芸協会から島村抱月と松井須磨子とが脱退して芸術座を組織した時であり、婦人問題に
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