投げ出した。
「どうした、ひろ子」
 しばらくして父親はそう云って薄笑った。
「だって学校が……」
 そう云いかけるのと一緒に涙が出て来た。
「まだお前、可哀想に……」
「あなたは黙ってらっしゃい」
「ひろ子の弟がなぐさめ顔に時々そっとひろ子をのぞいた。床の中で病人は仰向きに目をつぶっていた。もう翌日、十三の小さいひろ子は、その工場で事務員と父との交渉の間にぽつんとほうり出されていた。」かえり道で父親はひろ子をそば屋へつれて入った。前こごみにあぐらをかいて低いお膳の上で酒をつぎながら父親は上機嫌だった。
「すこし道が遠いけれど、まあ通って御覧。学校の方はまたそのうちどうにかなるよ」
 そういう調子で五年の優等生だったひろ子はキャラメル工場の小さい女工にさせられたのであった。が、日給制がやめられると、ひろ子の稼ぎは三分の一値下げされた。すると、父は「又何でもないように云い出した。」
「いっそもうどうかね、やめにしたら」
 ひろ子はハッとして顔をあげた。
「そしてどうするの?」
「しようがない、後はまたどうにかなるさ」
 キャラメル工場をやめさせたひろ子を、父親は口入屋のばあさんにたのんで、「ある盛り場のちっぽけなチャンそば屋へお目見得に行った。」
「ある日郷里の学校の先生から手紙が来た。誰かから何とか学資を出して貰うように工面して――大したことでもないのだから――小学校だけは卒業する方がよかろう、そんなことが書いてあった。」附箋つきで、ひろ子が住みこんでいたチャンそばやへその手紙が来たとき、彼女は「それをつかんだまゝ便所に入った。彼女はそれをよみかえした。暗くてはっきりよめなかった。暗い便所の中で用も足さずしゃがみ腰になって彼女は泣いた。」
 一九二九年(昭和四年)二月の『プロレタリア芸術』に、窪川いね子という女性が「キャラメル工場から」という小説を出した。
 四十枚ほどの短い小説であったが、「キャラメル工場から」は前年『施療室にて』という短篇集を出した平林たい子の作風とは全く異っていたし、又新感覚派の傾向のつよい中本たか子の作品ともちがった。「キャラメル工場から」には、アナーキスティックで濃厚な反抗がなく、又頭脳的に、都会風に色どられた階級意識がつよく出ているというのでもなかった。
 おちぶれた、気まぐれな小市民である父親の思いつきのままに、生活とたたかう場面にぐいぐいと押し出されて行く十三の少女の、素直で忍耐づよい姿と、同時に、どことも云えずそのリアリスティックな作品全体に溢れている清純な人間らしい向上の熱意が、読者を感動させた。当時にありふれた所謂意識でかかれた小説ではなくて、「キャラメル工場から」は勤労生活の中にある人間、女性の思いからあらわれた生活の小説であった。
「キャラメル工場から」にかかれたように、窪川稲子(佐多)は少女時代から働きつづけた。チャンそばやにお目見得に行った小さい娘の手にじゃが薯をむく庖丁がもちきれなかった。「大きくなったら、またおいで」と片言で云われた。次にやられたのは或る料亭の奥の小間使いであった。そこをやめてから祖母と病身な叔母との暮しで「いっそお半玉《しゃく》になってしまおうと思う」と決心するほど窮迫した。やがて父の許で、自身野ばなしにされたように暮したが、十七で再び東京に現れて彼女は以前小間使として働いた料亭の女中になった。それから、ある輸入商兼書店につとめ、その三年間の生活は、彼女にすきな文学書をよませ、音楽会へ行かせもしたが、彼女をその単調な反覆で絶望させ、自殺したい思いをさせた。中流的な結婚をした。それは、その厭世的な女店員生活からの脱出であったが、変質的な良人との間が苦しくて、一人の女の児をもって離婚した。遊んでいることの出来ない児もちの若い母は、レストランに通いはじめた。「艷々と髪に波をうたせ、水色に紫に錦紗の袖をひるがえし、オーケストラの間をおよぎまわる金魚であり、花である彼女らの一人であった。」
 その生活を一年余りつづけたとき、窪川稲子は、雑誌『驢馬』の同人たちと知り合った。中野重治、堀辰雄、西沢隆二、宮木喜久雄、窪川鶴次郎などが同人として、室生犀星、芥川龍之介、萩原朔太郎などの名もつらねられていた。窪川鶴次郎を通じて、『驢馬』は彼女に身近いものとなったのであった。十三の小さい女工は、それより前うちで『中央公論』や『太陽』や『新小説』の小説を拾いよみした。小さい娘をつれたまま芸者遊びに行く俥の上で、頼りない、気分やの父は「お前は女文士にしてやろう」と云ったりした。女店員時代から詩を書いて、「文学をやろうという意志で自分の生活を計画しているというような自覚的なものはなかったけれども」彼女は「文学に対しては高い喜びで接していた。」比較的上流の婦人ばかりで作られていた『火の鳥』という雑誌に、「ビラ撒き」という詩を発表し、『女人芸術』に「お目見得」という小説を書いたりしていた窪川稲子は、良人にはげまされて一少女工を主人公とした小説をかき、中野重治がそれに「キャラメル工場から」と題をつけて、『プロレタリア芸術』にのせた。それが、日本のプロレタリア文学運動の初期の作品の系列のなかで、独特なものとなった「キャラメル工場から」であった。
 貧しくて逆境におかれ、しかも伸びようとする願いを胸にあふらしている一人の若い女性として、窪川稲子は、自分が女であるということや、貧しいということや、様々の経験を経て来ているという来歴やらを、どう自分に感じていたのであったろうか。一九二九年、「キャラメル工場から」が出て好評を得た翌月に「自己紹介」というほんの短い小説がかかれた。その小説の背景は、府会選挙に、労農党が勤労者の中から代表を立て、その応援の活動に空腹を忘れ、過労と不眠とをひきずって、私という女主人公も「髪の毛からは絶えず滴が落ち、ちゞみの浴衣をきた肩はぐっしょり濡れ」ながら働いた。その運動も一段落をつげた投票日の朝の懇談会である。一座の男たちが、めいめいの労働経歴の自己紹介をやったあと、女主人公である私の番が来た。彼女は、今日まで経て来た自分の境遇の幾変化について自己紹介した。「下田の読む社会問題などの本をよみはじめましたが、子供の頃から貧乏な生活を続けている私にはそうしたことは、何の疑いもなくすっと入って行けたのであります。しかし、生れた家が小市民根性そのものである勤め人階級であり、その後の殆ど全部の生活も、茶屋奉公とか、女店員とか、カフェーの女とかでありましたので、現在もなお、その小市民根性を多分にもっているのであります。私は今それを、その根性の出るたびに克服すべく心がけております。」そして、この座で、一人の男が、そういう経歴の彼女に対して「その海千山千のみね子氏を」云々と云ったことについて、深く考えている。「海千山千という言葉は売笑婦的にきこえる。Eさんは本当にそうとったのであろうか。」「けれど私は一言云い足せばよかった。そんないろんな境遇の中に置かれたけれど、その間に一度の男女関係も、恋愛さえも下田以前に絶対になかったことを云い足せばよかった。」「もしも生活経験というものが男女関係に対する予想のもとに問題になるならば、私はその点では確かに生活経験が乏しいのに違いなかった。」
「キャラメル工場から」の作者のこういう人生への律気さ、真面目さは、同じ女給の生活の中から小説をかき出した手近い先輩の婦人作家が、女のそういう境遇さえ、有名な雑誌編輯者が面白く思ってくれるだろうとだけ考えた考えかたと、何たる相異だろう。同じ年に書かれた「レストラン洛陽」は、金魚であり花であると見られる女給の生活にいる女一人一人の現実生活の姿が、粉粧を洗いおとし、錦紗の着物をはぎとった人間生活のいきさつとして描かれた。
 感性と筆致の柔軟さと、着実でリアリスティックな気質の裡に一筋貫いていつも鳴っている澄んだ人間意欲のより高いものへの憧れは、窪川稲子の作品を小林多喜二の作品と又ちがった感じで、人々に愛させた。
 一九三〇年「四・一六の朝」「幹部女工の涙」、三一年「別れ」、三二年「何を為すべきか」、三四年「押し流さる」等これらの作品には、当時のプロレタリア文学が最前線にもっていた労働階級のテーマが積極的にとりあげられているばかりでなく、どの作品も、階級闘争の間におこる人間葛藤の微妙な心理、モメントが、愛と憎み、明るいものと暗いものとの縺れ発展する形の中に、立体的に把えられ描かれた。小林多喜二が一直線な運動と文学との実践のうちに「蟹工船」につづいて「暴風警戒報」「不在地主」「オルグ」「工場細胞」「地区の人々」「安子」「沼尻村」「党生活者」と、彼の全生活を賭した闘争とその文学を創って行った時期、窪川稲子は、当時の運動が彼女に強いたあらゆる困難とたたかいながら二人の子供をつれて、絶えず窮迫しながら、記憶されるべきこれらの作品を生んで行った。一九三三年、日本のプロレタリア文化運動が全面的に圧殺されてからは、窪川稲子の作品も当然変化をうけた。すべての作家の善意と努力から階級としての表現が抹殺されなければならなくなった。彼女の文学の題材は、依然として勤労する者の生活を描き、その人間的成長の願望を訴えながらも、次第に男女のいきさつにあらわれる旧い不合理に対して、働き生活を担当する女として社会的にとりあげてゆく面に中心をうつして行ったのであった。
 窪川稲子のこの時代の作品は、その一つ一つにそれぞれ問題をもちながらも小林多喜二が社会と文学の歴史において、真に新しい本質に立つ到達点として画した線に並んで、どの時代の婦人作家も書くことの出来なかった女としての生活と文学との実質をもったのであった。
 このようにして、窪川稲子が清潔、活溌な創作活動を旺盛にはじめたことは、ただ偶然、親切な男の友達たちがその周囲にいたから、というばかりの理由であったのだろうか。友達であるそれらの男の人たちの考えかたと感情との中に、婦人の生活とその創造力について新しい理解が自覚されていた、ということにこそ重大な意味があった。
 明治以来、卓越した作品活動を行った婦人作家、詩人はある。一葉は直接『文学界』に属していなかったけれども、擡頭する自然主義の文学潮流に対して、古く新しい『文学界』のロマンティシズムの代表者であったし、『明星』は、晶子の短歌なしにその篝火を輝やかすことは出来なかった。田村俊子がその作品に感覚世界における女の自我を主張したことも、注目されるべき歴史的な意味をもっている。けれども、これらの婦人作家、詩人のうちの一人も、自分の文学理論というものをもち、そのために活動したということはなかった。一葉も晶子、俊子も、みんな純一に勁く創作したけれども、その態度は全く内在的で、自分を導く文学理論としてまとまったものはもたなかった。晶子が「歌のつくりかた」について語っている言葉には、明星派に流れ入った彼女自身の物語はあるが、明星派の芸術理論は、与謝野寛のもち場として、はっきり区分されている。一人のスタエル夫人も、ジョルジ・サンドも、日本の近代文学はもっていなかった。客観的にはいつも偶然に、その人の才能と好機との偶中によって、婦人の創造性は既成の文学のうちに登場して来ていたのであった。
 社会的な基盤において芸術を理解し、階級の解放によってより人間らしい生存に達しようとする表現、そのうた、その光る矢として芸術をみるプロレタリア文学の運動は、富貴に対する庶民の貧しさを貧しさのままに、ルンペンの詩として肯定しなかったとおり、この社会で抑えられている大衆のその中で更に圧えられている婦人と青年の芸術の可能性を、重大に考えたのは自然であった。自分たちの陣営から、独自な女選手を送り出そうという個人的な或は党派的な利己的な動機からではなく、人民の半分を占める働く女の脈動として、解放のためにすすむ勤労者の声に合わせてうたう女の声々として、あらゆる芸術面に婦人の能力を導き出そうとした。
 プロレタリア文学運動の中には、詩人として北山雅子、一田アキ、後藤郁子、東園満智子
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