いる。この読売新聞に医学士森鴎外がカルデロンの戯曲を翻訳し「調高矣《しらべはたかし》洋絃《ぎたるらの》一曲《ひとふし》。三番続」としてのせていたのが、美妙の插画に対する世論の卑俗猥雑さにつむじをまげて、まだまだ日本人にカルデロンなんか勿体ないというのを、篁村がなだめてつづけさせていることも語られている。鴎外の訳詩集『於母影』の出たのはこの年のことであった。
 こういう社会の雰囲気や真実を求めつつ新旧の間で混雑している「婦女の鑑」と見くらべれば、花圃の「藪の鶯」は、当時にあってたしかにそのまとまりのよさでも頭角をぬいた作品であったろう。全体の筋も割合に自然だし人間の感情も日常の常識のなか、その範囲ではリアルである。「藪の鶯」の世界は一種新時代との歩調を合わせ妥協していることも、若い作者花圃の人生態度の分別のよさとともに、まぎれもなく当時指導的な思想として、日本に擡頭しつつあった国粋主義の考えの一応のまとまりを反映しているのである。
「藪の鶯」の作者が、やがて、当時政教社をおこして『日本人』を発刊しはじめた雪嶺三宅雄二郎と結婚した内的必然もこの作をよめばうなずける。「どもりはかわゆい」と思ったなどという角度で雪嶺を語るのは花圃の性格或は風格であって、内的な相似は更に深くこの二人の男女の歴史性のうちにひそめられていた。今日七十を何歳か超え、中野正剛を愛婿の一人とする花圃の生きかたは、決して偶然ではなく、「藪の鶯」一巻のうちに、その展開のいとぐちを含んでいた。「藪の鶯」という題は、稚き初音という作者のこころであったろうが、一声の初音は、初音ながらも、客観的にみれば明治になっても決して野放しのまま生の愉悦にふるえた喉一杯の初音ではなかった。おのれにふさわしい籠を天地とうけがって、そこの日向に囀られた初のひとこえであったのである。
 花圃と同時代には、木村曙女史のほかにも竹柏園女史・幽芳女史などというひとびとが短篇小説をかいていた。また、小金井喜美子、「小公子」を訳した若松賤子などという今日においても忘られることのない名前も、その翻訳の業績とともに登場しはじめている。花圃をはじめとしてこれらの有能な婦人たちが、早逝した若松賤子をのぞいて、文学上の活動をずっと積極的につづけて行けなかったのは、何故であったろう。
 ほかならぬ「藪の鶯」がその答えを与えていると思う。女主人公の浪子は作者とともに、女の理想として、生意気に亙らない範囲で物を知っていること、全く旧套によるのではないがさりとて全く自身の責任で生活してゆくというほどの社会的な独立を求めるのではなく、ふさわしい配偶を得て、内助の形での品のいいともかせぎの生活を描き出している。
 当時はものを書くにも学問として伝統をふんだ教養が必要とされていたから、女でそのような教養をそなえることの出来たのは、結局上流の子女たちばかりであった。従ってふさわしい好配偶というめやすも、浪子の言葉がおのずから限定しているとおり、何かの意味で社会的には「殿様」であるということになる。そのような良人たちの開化の精神の位置と程度とは、我が愛嬢を中心にお茶屋がひらけると冗談を云う大官たる作者の父親の心情と、果してどの位距りをもっていただろう。福沢諭吉が「新女大学」の腹案を抱いたのは明治よりも昔のことであったのに、それを発表したのはやっと明治三十二年になって女学校令が出てからのことであった。その理由として、福沢諭吉は、世情はそんな女子教育論など真面目にとりあげる状態になかった事情をあげている。そうとすれば、若い婦人たちの教育見識そのものが、男の側からの「生意気でない範囲」を己の埒としていると同じように、文学の仕事も、つまりは六分の旧套を守って行われている上層社会の日常生活に負担とならない程のたしなみ或は余技とならざるを得ないわけであったろう。
 中島湘煙が、女に文学の業はふさわしい、台所や茶の間に一寸手帳をおいても物を書いて行かれるから、とその頃の女学雑誌で云っている。が、文学の本質的な精励は、半封建の日本の婦人にとって、上流人であってさえも、そんな手軽なものでなかったことを現実が証拠だてている。また篁村が「絵画と小説は特に婦人に適す」と云ったことは、近代のロマンの精神の理解に立って、婦人の社会生活のひろがりとそこからの表現の可能としてとりあげられているのではなかった。小説というものについての前時代的な解釈、軟文学としての理解で、女にも出来ることという過小評価が吐露されていたことがかえりみられるのである。
 この時代に「婦女の鑑」一篇を発表して、その後の文学活動は見られなかった木村曙の作品は、私たちの心にのこる何かをもっている。筋の組立ての人為的な欠点や文章の旧さ、登場人物の感情の或る不自然さなどが欠点として目立つにしろ、「婦女の鑑」は当時にあって珍しい社会的な題材を扱っていた。
 擡頭しつつあった当時の日本の繊維産業と、その生産で女・子供が使役されはじめた状態が扱われたのは珍しいことであった。工場の給食や託児所という、働くものの福利施設のことが出て来ていることも珍しい。木村曙という作家は、彼女の若い女性らしい正義感によって、尨大な数になりはじめた「女工」生活の非人間的な条件を観察し、それへの抗議として、そんな題材へも及んだのであったろう。けれども文体や文学技法の上での不十分さから「婦女の鑑」は所謂有名な作品とはならなかった様子である。そして、表面開化しながら内実は封建性の暗さ重さに圧しつけられていた社会全般の生活は、木村曙によって文学に導き入れられたひろい社会的生産的題材というものを、つよく云えば数十年後の今日まで、婦人による文学の領域で発展させないままに来たのであった。

     二、「清風徐ろに吹来つて」
         (明治初期二)

 三宅花圃が昭和十四年の春ごろ婦人公論にのせた「思い出の人々」は、いろいろの意味から面白い自伝であった。花圃の幼年時代の生活が、倒壊してゆく幕府の運命の埃を、その肩に蒙るばかり近くあったせいか、同じぐらいの年配でも地方出身の人たちは使わない徳川「瓦解」とか「御一新」とかいう表現のうちに、江戸から東京への推移の感情を生々しくつたえている。その思い出のなかに、明治十九年の秋、中島歌子の「萩の舎」で催された九日の和歌の月並会での一情景が、語られている。
「出席して見ますと、みんなの前におすしを配っている、縮れ毛で少し猫背の見なれぬ女の人が居りました。私は江崎まき子さんと床の間の前に坐ってべちゃくちゃお喋りをしておりましたが、ちょうど私たちの前へ運ばれて来たお皿に、赤壁《せきへき》の賦《ふ》の『清風《せいふう》徐《おもむ》ろに吹来つて水波《すいは》起《おこ》らず』という一節が書いてございましたから、二人で声を出して読んで居りますと、若い女の人がそれに続けて『酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕《えうてう》の章を歌ふ』と口ずさんでいるではございませんか。
 私たちは、顔を見合わせて『なんだ、生意気な女』と思っておりましたが、その人が他ならぬ一葉さんで、会が終って、帰るときに、先生から『特別に目をかけてあげてほしい』とお引合せがございました。一葉さんは、女中ともつかず、内弟子ともつかず、働く人として弟子入りをなすった様子に見うけられました。」
 この数行をよめば、その時代の一葉の境遇が痛いように私たちの胸に迫って来る。
 当時、日本は明治初期の欧化に対する国粋主義の反動期に入っていて、上流の人たちの間には、一度すたれかかっていた和歌だの国文学の教養が再びやかましく云われはじめていた。中島歌子が経営していた萩の舎の歌塾は、佐佐木信綱の追憶などによってみても、当時は大した勢のものであったらしい。和歌の例会の日には、黒塗の抱え車が門前にずらりと並んで、筆頭には、その頃錦鶏の間祗候田辺太一の愛娘であった花圃をはじめ、名家名門の令嬢紳士たちが花の如く集って来た。森有礼の理想によって、女子の最高学府として設立された一つ橋の東京高等女学校のポスト・グラデュエート(専修科)に通っていた花圃は、そういう歌会の席でも、床の間の前に坐っていたというところに、おのずから置かれていた地位がうかがえる。それらのはなやいだ才媛たちがうち興じながら、何心なく誦した赤壁の賦に和した僅か十五歳の夏子の才走った姿も目に見えるようである。また、彼女のかくし切れない才が穂にあらわれたとりなしが若い貴婦人たちの感情へはいきなり「なんだ、生意気な女」と、つよく映ったというのも面白い。当時まだ「家来《けらい》」というものを日常身辺にもって暮していた上流の若い婦人たちが自分たちが坐っている前へおすしを運んで来るような身分の軽い少女に対して、風流の間にもはっきりと身分の差別を感じていたというのは、こわいように思える。
 一葉の二十五年の短い生涯を、貧窮が貫いたのは周知のとおりだけれども、この時分はまだ一葉の両親は在世であった。明治五年に、東京府庁の山下町の官舎で、樋口家の次女として生れた夏子は、六つで本郷小学校へ入学した。しかしそこはどういうわけかすぐ退学して、手習師匠のところへ通わされ、十四年に家が下谷に移ったのち、その冬から池の端の青海小学校に通学した。そこに通ったのも二年ばかりで、またやめて、翌十七年に、和田重雄という父の知人である歌人の門に入った。十三の少女は、
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いづくにかしるしの糸はつけつらむ
      年々来鳴くつばくらめかな
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という、生気のある愛くるしい歌をつくったりしている。そこに通ったのも僅か半年で、その後は家で専心裁縫の稽古や家の手伝をしなければならなかった。
 両親とも甲斐のひとで、母の瀧子というひとは稲葉家に仕えたことのある婦人であった。父の樋口則義は甲斐の大藤村の農家に生れたのだが、侍になりたい志を立てて江戸にのぼり、則義は菊池という旗本の家に入り、後は、八丁堀の与力浅井の株を買って幕臣になったという閲歴である。今井邦子の「樋口一葉」に、「則義氏は旗本菊池家に、母君は同じく稲葉家に仕えたが」とかかれているところをみれば、甲州のひとたちらしく辛棒のつよいこの夫妻は、夫婦ともどもに江戸に出て、江戸へ出た上は別れ別れに旗本だの士族だのの家に入って、侍になりたいという素志を貫徹したのであったらしい。
 そういう経歴の瀧子が、夏子の母であったということは、一葉の一生を通じての娘としての苦衷と思いあわせ、私たちの記憶に刻まれる一事である。
 明治初年に東京府のささやかな一官吏となった主人。やっと侍の妻になったかと思うと、もうその努力の結果は、歴史の怒濤に泡となって消え去ってゆくのを見送らなければならないような、かちきな母瀧子の生活感情には、開化の声が、快く希望を唆る響としてはきこえず、世相の浮き沈みとして反映したであろう。次女夏子を小学校にあげてみたり又すぐさげてしまったりする樋口家の家庭の空気には、二つ下の幼い女の児邦子をかかえた母の、安定のない気分が少なからず作用していたらしくも推察される。
 樋口の家庭の明け暮れは、鹿鳴館の賑いなど思いもそめない風俗であった。瀧子は、昔ながらに、女の子に永く学問なんかさせると、ゆくゆく為によくないという方針で、夏子を躾けようとしていたのであった。
 父則義は、侍になりたいと思った気持にしても、その底には好学の傾きも持っていた人らしくて、その点では必ずしも妻と同じように娘をみてはいなかった。どこか凡庸でない少女の眼差しや、心のうごきが察せられたとみえ、折にふれて和歌の集や物語本など買って与えたり、あれこれ歴史物語をきかしてやったりした。そして、到頭妻を納得させて、遠田澄庵という人の紹介で、当時閨秀歌人として、水戸の志士林の妻として女傑と称されていた中島歌子の萩の舎へ十五歳の夏子を入門させたのであった。
 これが夏子の生涯の転機であった。花圃の思い出にのこっている赤壁の賦の場面は、一葉がそのようにして萩の舎に入門してい
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