かわゆく自然で、微笑まされる。第六回女塾の場面を、逍遙は序のなかで圧巻とほめているのであるが、明治二十年というその時分の女学生の喋り工合が活々としているばかりでなく、云われていることが、今日の私たちの心に、一かたならぬ様々の感想をよびおこすものをもっている。浪子がヒロインとして、女に学問をさせることが当時一問題となっていることを述べている。
「この頃は学者たちが女には学問をさせないで皆無学文盲にしてしまった方がよかろうという説がありますとサ。すこし女が学問すると先生になり、殿様は持たぬと云いますから人民が繁殖しませんから愛国心がないのですとさ。明治五六年頃には女の風俗が大そうわるくなって肩をいからして歩いたり、まち高袴をはいたり、何か口で生いきな慷慨なことを云ってまことにわるい風だそうでしたが、此頃大分直って来たと思うと、又西洋では女をとうとぶとか何とかいうことをきいて少しあともどりになりそうだということですから、今の女生徒は大責任があるのでございます。」浪子とりもなおさず作者と思われる少女は、「女徳を損じないようにするために」何でも一つ専門をきめてそれをよく勉強して生意気にならないようにしなければならないと云っている。そして、学問をする人と結婚して共かせぎをするという将来の方針をも、はっきり語っているのである。
 明治二十三年の国会開設を目前にして、かつての中江兆民、板垣退助の自由民権運動は急速に圧迫し終息させられはじめていた明治二十年。明治初年の欧化に対する反動時代の暁としての明治二十年。中島湘煙や福田英子の政治活動が、なるほど或る点では奇矯でもあったろうが、それもその時代の歴史の生きた姿であり男女同権の真実な要求としては評価されず、「女の風俗が大そうわるかった」時代としてばかり教え込まれ、当人たちもそう感じるような自分の教育を正しいものと思いこんでいる時代の空気。そのような明治二十年代の雰囲気が、色濃くこの「藪の鶯」に盛られている。しかも、今日の公平な読者の目には、これらの識見が、決して二十歳そこそこであった花圃自身の自発性によって見出され身につけられたものばかりでないことは明瞭に写って来る。「女の人ではどうも物足りなくて、男子の方から啓発をうけたことが、やはり多かったように存ぜられます。」思い出の中でそう言っている。「藪の鶯」の作者が周囲の男子の方から啓発された当時の反動期に入った日本の上層者のものの考えかたの方向、周囲に語られていたその時代の主導的なものが、歴史の鏡として、作者も自覚しないところにこの作中に照りかえしているのである。
 尾崎紅葉が法律学生であったことが伝記にかかれている。法律学校に学んだ青年を政治に幻滅させて、文化・文学の面に活動させるようになった明治の半封建の藩閥官僚主義への反撥や、猟官流行への軽蔑の風潮も、「藪の鶯」の中に響いている。作中の或る人物について、若い作者はなかなか辛辣で「ゴマカシウム百分の七十にオベッカリウム百分の三十という人物」と云っている。官吏よりも技術家を尊重する気風が女生徒の口をかりて語られているのも、いかにも近代社会として急速に成長しなければならなかった当時の日本の後進資本主義国としての必要が、女子教育にも娘の子の婿さがしの気分にも影響していたことがわかって面白い。
 明治二十一年というときの日本は、二十《はたち》ばかりの若い女の書いた小説でも、それが上梓され、世間が注目するだけには開化していた。一般がそこまで来るには、明治初年からたゆまず続けられた福沢諭吉の啓蒙もキリスト教教育で婦人の文化的水準を高めた新島襄の存在もその重大な先駆をなしたのであるし、中島、福田女史たちの動きも、ことごとくその土壤となっているのである。「藪の鶯」の女主人公である悧溌な浪子が、そういう歴史の脈動を評価する力を、反動期に入ったその新時代的教養からちっとも与えられていないで、至極皮相に「明治五六年頃には女の風俗が大そうわるくなって」と周囲から注ぎこまれ、おそわったとおりに片づけているところは強い関心をそそられる。廃娼運動が全国におこったのは明治五年であったし、男女交際の自由がとなえられてもいたけれども、それは特殊な上流の一部に限られていて、庶民暮しをしている当時の書生の恋愛の対象はまだ芸者だの娼妓しかなかったその時分のうすぐらい日本の現実は「当世書生気質」に描き出されている。
 その上流の開化、欧風教育そのものでさえ、どんなに矛盾し、錯雑したものであったかということは花圃の追懐談にもその情景を溢れさせている。
 花圃などは、当時の進歩的な大官の令嬢としてベッドで寝起きし、洋書を学び、洋装をして舞踏会にも出席し、家庭での男女交際ものびのびと行われていたらしい。男の友達から啓発されたことが多かったと語られているのは実際であろうが、この家庭の欧化の半面に「多勢男の方が家へ遊びにおいでになりましたので、父などは、『お茶屋が開けるぞ』と云って笑っていたほどでございました」と不思議もなく語られているのも、今日の私たちには、改めて当時の女の開化性というものの現実を見直す心持をおこさせる。
 明治十八年に出た「佳人之奇遇」などには、男子の政治的な活動に情熱をふき込む精神のつよい婦人の出現が理想として描かれたのであったが、「藪の鶯」の中のかしこい浪子は、もう政治家に対してよりも派閥から比較的自由であり、出世も出来、金もつくれる技術家へ女としてより関心をひかれる気持をはっきり表明している。政治はすべての若い人々の進歩性に対して、もうその「公論に決する」真実の機会を封鎖してしまっていたことがわかる。浪子は一向分析していない旧来の「婦徳」というものを損わざらんことをものわかりよい婦人の義務とわきまえ、或る程度まで自立し開化しながらも、決して女としての分を踰《こ》えたりしない良家の女主人としての存在を理想として、みずからに方向づけている。このことは、近代日本女子教育に一貫された政府の方針でもあったのである。作者は「男子のかたから啓発され」つついつしか当時の支配者たちの女子教育論を代弁している。
 社会的な意味で、「藪の鶯」の先駆をなした福田英子・中島湘煙たちは、文学の上ではこれぞというほどの足跡をのこさなかった。福田英子にはずっと後年になってから『妾の半生涯』という自伝があり、これは、明治初年からの女性史にとって、重要な参考品である。湘煙は漢学の素養がふかくて、明治二十年頃には「善悪の岐」その他の短篇や漢詩を『女学雑誌』にのせたり新時代の婦人のための啓蒙に役立つ小論文をのせたりしている。フランスやイギリスから渡って来た男女同権論を、湘煙は漢文まじりのむずかしい文章で書いている。当時の日本の文化がいかにも新しい勢と古いものとで混雑していた様子がうかがわれる。
 例えば、湘煙は『女学雑誌』に「婦人歎」という論文をのせている。これは婦人の歎きとよみ下すのではなくて、「ふじんたん」とふり仮名がつけられてある。この文章の骨子は、明治になってから外見上婦人の位置は向上され、昔の女の生活とは比べものにならないように思われるかもしれないが、それは皮相の観察で、女の真の境遇の本質はやはり同じようにおとしめられている。女の姉妹たちは、「単に怨み多くして怒少なきなり」それではまちがっている、堂々正論を行う心持を養わなければいけない、という極めて明快率直な趣旨なのだけれども、それが書かれている文章はというと、「幸に濃妝《のうせう》をもつて妾が雙頬《さうけふ》の啼痕《ていこん》を掩《おほ》ふを得るも菱華《りやうくわ》は独り妾が妝前《せうぜん》の愁眉《しうび》を照《てら》さざる殆ど稀なり」という文体である。私というところが男のとおり「余」と書かれている。そして、こういう漢文調の論文の終りには細かな活字で、アリストートルの詩の句が英語で引用されているのである。
 開化期の文学は混沌としていて、仮名垣魯文のように江戸軟文学の脈を引いて、揶揄的に文明開化の世相風俗を描いた作者がある。その一方では「佳人之奇遇」などのように、進歩の理想を漢文調で表現した政治小説翻訳作品があり、中島湘煙のようなひとは、後の部に近くあったのだろうと思われる。
 当時の教養の伝統が、こんな矛盾を湘煙にもたらしたということもあるけれども、その士族的な教養そのものが示しているとおり、当時の男女同権論者にしろ、女権のための運動家たちにしろ、その主体は一部の上流的な有識男女の間にとどまっていたのだということを、沁々考えさせる。
 さもなければ、湘煙がどうしてああいうむつかしい文体で文章を書いて納っていられただろう。もしも、日本の女のおくれた生活というものが、あちこちの露路、そちこちの村で営まれている日々の生活のままに湘煙の心に映っていたのならば、彼女もおそらくはそれらの女性への同情からだけでも、「濃妝をもつて妾が啼痕を」とは書かなかったであろうと思われる。
 旧いものと新しいものとの混乱は別の形をとっても現れている。明治二十二年一月から読売新聞にのった木村曙(岡本えい子)の「婦女の鑑」という小説は、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」がかかれた時代、モウパッサンの「死の如く強し」があらわれた同じ年の作として読むと、様々の意味で私たちを駭《おどろ》かすものがある。この小説は先ず、
「冬枯れし野辺も山路も衣換へて自づと告ぐる春景色花の色香に誘はれて」
という七五調のかき出しで、某侯令嬢国子その妹秀子が、飛鳥山に新築された別荘へ花見がてらコゼットというアメリカの女友達を招待しようとおもむく道すがら、飛鳥山の花見の人出のなかで放れ小馬が貧しい一人の少女を負傷させ、その春子という少女を別荘につれて行って介抱してやるというのが一篇の発端をなしている。
 この小説が読売新聞に発表されるについては饗庭篁村がながい推薦の辞をつけている。「美学のうち絵画と小説は特に婦人に適す宜しく此地を婦人の領とすべし」という篁村の考えかたは政治は男のものとする常識で、文学・小説というものの社会的な本質を過小評価している気風を反映させていて面白い。「清紫の亜流世の風潮によどみて無形の美をあらはすこと少なく」それを憾みとしていたらば、「岡本えい子女史は、高等女学校を卒業して夙に淑徳才藻のほまれたかく学の窓の筆ずさみに一篇の小説を綴られしときゝ」懇請して発表するとかいている。
 花圃が「藪の鶯」を出した翌る年のことだから、その刺戟で書かれたものであったろう。今日興味をうごかされるのは、この小説がその七五調を徹底させて「いざや何々候はん」と会話までその文体でおしとおしているばかりでなく、筋のくみたてが全く馬琴流の荒唐に立っていて、モラルもそのとおりの正義、人情であやつられながら、他の半面では当時の開化小説の流れをくんで場面は海外までひろがり、登場人物には外国少女も自然にとりいれられていて、しかも、それらの外国婦人の心情がそっくり日本の武士の娘の心情にとりかえられて表現されていることなどである。この「婦女の鑑」にも技術家尊重の気風は強調されていて、種々の波瀾ののち絹糸輸出のために秀子が小工場をおこし、貧家の女子供らをそこに働かしていくらかの給料のほかに朝夜二食を与え、子供のために工場の幼稚園をつくり、三つから十までの子供の世話をするようにすることで大団円となっているのである。こんな結末にしろいかにも明治二十二年ごろらしい。憲法発布のお祝いが東京市中をひっくりかえしているときに、森有礼が刺され、文学では山田美妙の「胡蝶」の插画に初めて裸体が描かれ、それに対する囂々たる反響が、同じ読売新聞にのっている。
 その時分の文芸批評の方法や形式というものには客観的な基準などなくて、美妙の插画への嘲笑も「東京にはZORAが出まして都の花をさかせます。いかにも裸は美妙です。なるほど『美』はARTにはないものと見えます」と、徳川時代の町人文学の一つであった川柳、落首の様式を踏んでいる。ZORAでなくてZOLAですよ、という投書ものって
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