かほどもない時分の一つの情景であろう。「女中ともつかず、内弟子ともつかず、働く人として弟子入りをした」と同門の令嬢たちが夏子の身分をことこまかに区別して観察しているところを考えれば、弟子というのは、十分な月謝や食費や衣類調度をもって師匠の許におき臥しする令嬢を云い、夏子の父は娘のためにそれだけのことはしてやれなかったのだと思われる。特に当時盛名を馳せ、華やかに語られていた中島歌子の貴族的な塾へ娘を入れるように骨折ったりしたことには、父として娘の才能にかける仄かな期待とともに、母の胸中には、昔、自分が甲斐の田舎から江戸の稲葉家に上ったときの心持のつながりもあったかもしれない。
一葉の父が亡くなったのは明治二十二年七月、一葉は十八の夏であった。その前年、官吏をやめた則義は友人たちと馬車会社を起したというのも当時らしく、またその会社が思うように行かないで、則義はそのごたつきの最中、亡くなったのもその人らしい時代の俤である。夏子の上には、兄が二人もいたのだが、彼女がやっと萩の舎に入門した翌年に長兄が病歿し、次兄はよそへ養子にやられていたので樋口家の相続の責任は自然夏子の肩にかかって来た。
父の歿後、一家はしばらく養子に行った次兄の許に身をよせたが、円滑にゆかなくて、一葉は自分だけ中島のところで暮した。その翌る年十九の夏子が母瀧子と十七の妹邦子とをひきとって、本郷菊坂につつましい一戸をかまえ、母娘三人の生活がはじめられたのである。
元来家産があったのでもない則義が亡くなった今、十九の夏子がいかに大人びていたにしろ、どんな方法で生計を立ててゆこうと計画したのだろう。一二年の間はどうやら女三人の生活は営まれたが、三年経った二十四年の秋には、初めて親戚の家へ三十円借金をしたことが日記に出ている。貧は次第にはっきり牙をあらわしはじめた。
花圃の「思い出の人々」のなかに、
「ある日歌の会が終って帰ろうとしておりますと、一葉さんが下駄をはいて玄関のそとまで送って来られて『私は大望をおこして、小説をかいて見たいと思うがどうか』という御相談をうけました。私は『書きたければ勝手にお書きになればいいんじゃありませんか』とにべもない返事をいたしましたが」云々と、当時自分自身の身辺がとりこんでいておちおち相談にものれなかった有様が飾りなく語られている。
花圃が「藪の鶯」をかいたのは明治二十一年のことであった。それからひきつづいて「八重桜」だの「こぞの罪」だのという短篇を発表していたし、木村曙、小金井喜美子、若松賤子、竹柏園女史その他、婦人のものを書く人たちが少くなかった。そういう周囲の空気から心を動かされたことも無くはなかったろうけれども、一葉が「大望をおこして」と花圃のあとを追ってまでうちあけた一ことのうちには、ただ自分に小説をかくような才能があるだろうか、というような意味ばかりではない、犇《ひし》と迫った生活問題も考えられていたのではないだろうか。今井邦子の「樋口一葉」には、花圃の思い出として「一時間くらいしな[#「しな」に傍点]を作ってさんざんシネクネとした揚句帰る時に、あの、私、貴女様のお真似をしたいのでございますけれど、あの私のようなものがそんなお真似などをしたいなどと申上げるのはお恥しうございますわ」と云ってその日はそれでかえったということが語られている。これも同じ頃のことだろうか。こっちが前で、玄関の外までおくって出ての話は、心理的に見て、あとのことかもしれない。
萩の舎門下の才媛たちの間で、「あゐよりあをし」と定評されていたのは花圃であり、その花圃と並んでその才幹を着目されているのが一葉であった。が、世渡りの道も十分以上に心得ていた中島歌子の萩の舎の女ばかりがつくりだす空気の裡では、一葉に対する気分にも、その才能に対する評価と同時の意地わるさ、彼女の境遇への不言不語の軽蔑があったとみられる。
「中島先生のところで、みんなから集めました筆代の二円がなくなりましたとき、一葉さんに疑いのかかったことがございました。『貧乏はつらい』と云って泣いておられましたから」花圃が覚えがないなら泣かなくともよい、下らぬことで泣くものではないと慰めるよりも叱ったことがあるということも語られている。身に覚えがないのならそんな下らないことに泣くに当らないと判断する花圃は、いかにも「藪の鶯」の作者らしい。そんな下らない疑などをかけられようもない立場の令嬢らしい口ぶりと、どこまでも常識にだけ立った合理性をしめしていて、この人らしい。けれども、一葉としては、泣かずにいられない皆のしうちがあっただろう。
赤壁の賦のときの情景。そして、こういう涙をもこぼさなければならなかった周囲の空気。萩の舎門下の富貴な淑女たちから一葉が「ものつゝみの君」と呼ばれていたということも、そのような複雑な女同士の心理を背景としてみれば、肯ける。一葉が「一時間くらいしな[#「しな」に傍点]をして」、小説のことに触れるような触れないような話しかたをしたぎりで、かえって行った時のことを、花圃は、単純率直でない一葉の人柄の一面として見ている。それも当っているだろう。が、私たちが今日遠くはなれた明治のその時代のその環境において、十九か二十だった一葉のそういうとりなしを思いやると、そこには、花圃に泣くなんて下らないと云われても、おのずとせくりあげて来た一葉の涙があったのと同じ心理の翳を感ぜずにはいられない。
たとえば、花圃に向ってしねくねとしながらの言葉づかいにしろ、同門の先輩への敬意というばかりで、ああいう口調になったのだろうか。「藪の鶯」のなかで、逍遙が最も傑出した部分として賞めている女学生たちの会話を見ると、当時でも開化の教育をうけた上流の令嬢たちはお互同士「アラ、よくってヨ。あんまりこもっているから、炭素を追出してやるんだワ。あんな口のへらないこと。」などという調子で喋りあっている。花圃の方ではお夏ちゃんと呼んでも、そのひとの屋敷のうちに田圃まであるような家を訪ねれば、一葉は、卑屈さからではなしに、私も小説をかきたいわ、とはあっさり云えない雰囲気のちがいを、敏感な心に感ぜずにはいられなかったのだろう。これは、時代のふるさ、一葉のふるさとばかりは云い切れないと思う。二人の若い女性は、とことんのところで全く別な二つの世界に住んでいたのだから。支配階級に属す人々の女選手としての花圃。名もない庶民生活に偶然芽生えた才能としての一葉。二人の間に共通な人生はありようなかった。
二十四年の一月に「かれ尾花」というごく短い小説をかき、その四月には、題のつかないままのこされた習作一篇をかいた。その年の「森のした草」という随筆に「小説のことに従事し始めて一年にも近くなりぬ」と云われているから、一葉はその前の年ごろから、積極的にはげましてくれる友達もない中で、到頭小説をかく決心をしたものと思われる。「いまだよに出したるものもなく、我が心ゆくものもなし、親はらからなどの、なれは決断の心うとく、跡のみかへり見ればぞかく月日|斗《ばかり》重ぬるなれ。名人上手と呼ばるゝ人も初作より世にもてはやさるゝべきにはあるまじ。批難せられてこそ、そのあたひも定まるなれなど、くれ/″\もせめらる」と述懐している。
一葉が中島の塾を手つだって貰う月二円のほかに、賃仕事や下駄の蝉表の内職をして生計の助けとしている母の瀧子や邦子は、一葉の文作をたよって、早くものにしようとしないのを一葉の引こみ思案だとせめたてたのだろうけれど、一葉の心とすれば、「衣食のためになすといへども、雨露しのぐ為の業といへど、拙なるもの誰が目に拙しとみゆらん」とかえりみるだけの鑑識はおのずからあった。
生活の必要におされて小説をかく覚悟はしたものの、十九の一葉にはまだ小説をかいてゆく創作上の方向、態度などが一向つかめなかったのも無理ないことであった。「かれ尾花」は、小説というよりは一篇の作文であった。題のない習作の方は、会話などもさし入れての試みであるが、これも小説には未《いまだ》しというものである。
二十四年の四月十一日、萩の舎の人たちが向島へ花見に行った日からつけはじめられて、二十九年七月二十二日、生涯の終る四ヵ月前まで六年間つづいた日記は、一葉にとって初めは小説をかく勉強のつもりだった。「かれ尾花」と同じような流麗ではあるが型にはまった和文脈の文章でかかれている。
萩の舎へ行かないときは、上野の図書館へ調べものに行ったり、夜はたのまれた仕立物にせいを出したり、そういう朝夕も、小説のことが念頭からはなれない一葉にとって決しておだやかに送り迎えられる一日一日ではなかったろう。
二十四年の四月十五日に、友達の野々宮菊子の紹介で、初めて半井桃水に会うことになった。半井の妹を菊子が知っているというほどの縁故で、一葉は桃水に自分の小説を見てもらうことになったのであった。
桃水は当時、朝日新聞に小説を連載していて、小説担当の記者の一人であったらしい。今でいう大衆小説をかいていたのだが、その時代の作家たちのなかで、果してどれほどの文学的存在であったのだろう。
和歌と小説とは、文学のなかでもおのずから別の分野であるとは云え、明治二十四年というときは、紅葉と露伴、逍遙と鴎外が其々対立して盛に文学の本質論をたたかわせた年であり、『早稲田文学』『しがらみ草紙』などが、新しい日本のロマンチシズム文学の成長の舞台であった。萩の舎のまわりには、一葉の小説勉強のために、師として適当な人選をしてやるだけの親切な人がなかったばかりでなく、萩の舎塾という存在そのものが、当時の若々しく激しいヨーロッパ文学の影響をうけた日本の小説界の動きに対して、全く圏外にある上流紳士、令嬢たちの嗜み余技の中心として安住していたことが察せられる。
初対面の桃水の印象を一葉は日記にこまかく熱っぽくかきつけている。
「君はとしの頃|三十年《みそぢ》にやおはすらん。姿形など取立ててしるし置かんもいと無礼《なめ》なれど、我が思ふ所のままをかくになん。色いと白う、面おだやかに少し笑み給へるさま、誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈《たけ》は世の人にすぐれて高く、肉豊かにこゑ給へばまことに見上るやうになん。」
桃水はこの次はこういう小説をかいて御覧なさいというような話しをしたり、一葉の生活の楽でないことから桃水自身の「貧困の来歴など残るくまなくつげ」たりして、その上に、お互に若い男女のつき合いと思えば面倒くさい、お互に「親友同輩の青年と見なしてよろづ談合をも」するからなどと云っている。
次第に桃水にひかれて行くようになった一葉の心持を、其々の研究家たちが其々に評している。あれほど見識のあった一葉が、どうして半井ぐらいの男性に魅せられただろうか、という疑問を、ひとしく提出している。一葉は顔ごのみで、桃水はともかく美男だった、という点から観察するひともある。その時分かいたものの中にある描写から察しても、なるほど一葉の心におかれていた美しい男の風貌の標準は、ごくありふれた内容で、つまり彼女のかく美文めいた趣味であったことは推察される。けれども、一週間ほどして二度目にあったときの日記に、
「うしは先の日まみえまゐらせたるより今日は又親しさまさりて世に有難き人かなとぞ思ひ寄りぬ」とかきしるした動機には、桃水の容貌ばかりでなく、一葉の若い心情をつよくとらえたものがあったと考えられる。
二年ごしひとりで苦しみながらあてもなく焦立っていた自分の小説について、桃水が新聞向きの作風ではないからと一葉の気質を鑑定した上、紅葉に紹介しようと云ってくれたことも、それこそが眼目で紹介されて来ている一葉にとって前途のひらけてゆくうれしさであったろう。母と妹とが、生活の上では彼女ひとりにとりすがって、息をこらし気配をうかがっているような負担を夜昼感じている一葉にとって、青年同士と思って語り合おうと云ってくれる男のひとのいることは、どんなにか頼もしく感じられただろう。
だが、もし半井桃水という男が、同じ親切を示しな
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