めな変り咲きであった。『文学界』の人々の若々しく醇朴なロマンティシズムは、一葉の芸術に影響した過程をみても明らかなとおり、本来は前進的な意味に立つものであった。が、十年を経てあらわれた樗牛のロマンティシズムは、ニイチェに追随して自己の解放を個人主義に立つ観念の内に求めたばかりでなく、云うところの美的生活の実態を明らかにし得なくて、英雄崇拝に趨り、日蓮への憧憬に終末した。
雷鳥のロマンティックな天才についての翹望と理解の方向、自己を天才たらしめる道ゆきの定義は、其が社会の中での動きから超脱した個人の主観に基礎を置いていることからも、非常によく樗牛のロマンティシズムの影響をうけていることが感じられる。その面からだけ見れば、雷鳥の調子たかいロマン精神も、根本にはいかにも小市民層の特色を湛えた性質をもっているものであったと思う。当時の日本の社会は、日露戦争の後をうけて国内保守の状況にあって、『青鞜』発刊の明治四十四年には有名な幸徳秋水の事件のために菅野すが子が死刑に処せられたときである。河田嗣郎著の婦人問題という本が発売をとどめられた時代。鳩山春子がデンマークの婦人参政権大会からの招待を拒絶した時代。そして一方では六千の市電従業員が待遇の不満を唱えて大晦日に市民の足を失わせ、紡績女工の数は激増した時期である。
婦人記者の月給は十五円平均であったという当時の社会の現実とてらし合わせて、雷鳥の感想の本質をよめば、彼女は日本の婦人一般の生活では一度もまだ明瞭に自覚さえされたことのない「我」というものを、超脱せよ、と云っていることに愕かれるとともに、婦人の社会での地位の向上を現実条件の改善から求めることに対する彼女の否定の性質が、どういうものかということも、考えられるのである。
嘗て自由民権の時代に大阪事件にかかわりをもった福田英子が『青鞜』の第二年目の或る号に感想を乞われて、老齢ながら「若き日の誇り」をもって、らいてう女史の識見は高いが、それは人生問題であって、婦人問題ではないと、その区別を明らかにしたのは正当であった。婦人問題の行くべき道としてそこに福田英子の述べているところは、資本主義社会の生産の機構の矛盾と、婦人の間にもある搾取者と被搾取者との間の階級分化とその対立、発展の歴史的必然にふれているものであった。
らいてうの感想そのものだけについて観れば、こうして小市民風の観念的なものを多分にもっていたにかかわらず、当時の婦人の間に生じていた動きの底づよさは、青鞜社というものに一つの中心を見出して、それぞれの積極性をもって種々様々の婦人たちがその周囲にあつまった。当時は英学塾を出てまだ間もなく、赤い帯をしめた一人の眼の大きい娘であった神近市子。辻という人と同棲していたらしい時代の伊藤野枝。大杉栄の妻であった堀保子。岩野泡鳴の妻岩野清子。それらの人々の名が、婦人の生きる道の狭さを自覚した息づかいと、それに抗し、方向は明瞭でないながらもそれをうちひろげて行こうとする試みの気分に満ちた文章とともに『青鞜』の各号にあらわれた。旧套にしたがった結婚や、家庭生活への疑問が公然とのべられて、共同生活という、男女の新しい生活様式も、岩野清子の短い文章の中で云われている。文学的なものとしては、瀬沼夏葉がチェホフの「桜の園」の翻訳をのせ、野上彌生子がソーニャ・コヴァレフスカヤ伝を送った。岡本かの子、原あさを、原田琴子等の愛と歎きとの短歌。茅野雅子の、慎しい妻としての明暮のなかに、やはり心の見ひらかれた女としての自分に見出す境地のあることを唱った詩。そのほか、毎号いくつかの短篇小説がのせられた。其等の作品は試作的なものが多く、既に文学の新世界として出現していたネオ・ロマンティシズムの色調を多分に盛り、耽美的、官能的な感覚の流れが、女としての時代的な要求と絡みあったようなものが大部分を占めた。生田長江、馬場孤蝶、岩野泡鳴、阿部次郎、高村光太郎、中沢臨川、内田魯庵などという人々は、当時、酒をのみ、煙をふかし、吉原へ行くのが新しい女というような見かたをする世俗の偏見とたたかっていた青鞜社のグループに、好意ある支援を示した。
『青鞜』が第三巻を発行する大正二年頃になると、らいてうは「青鞜はムーヴメントをおこさむとするのではない、我々青鞜社員が目下の急務として努めるところは、真に新しい女として心霊上の自由を得た完全な一個の人格たらむとすることである」とやや弁明的な再宣言を行ったが、当時、一方では保守に傾いていた社会の常識と青鞜のグループとの摩擦は次第に激しくなって、青鞜社主催の文芸研究会の会場を借りるにさえ困難であるという状態になった。
らいてうの感想集『円窓より』は改訂して『※[#「戸だれ/(炯−火)」、第3水準1−84−68]《とざし》ある窓にて』として初めて発売された。らいてうの主観が、いかに「我れ我を游離する時潜める天才は発現する」という境地にとどまろうとしても、現実の波は追々彼女を年齢の上からも押しすすめてエレン・ケイの「恋愛と結婚」の思想にも近づかせた。『青鞜』は、同人たちの成長とともにいつしか社会への意識に向って、推し動かされて行ったのであった。
時代の坩堝《かんか》としての『青鞜』は、主宰である平塚らいてうの生活の変化をもこめて、巻を重ねるにつれて推移した。
明治四十四年、発刊当時の『青鞜』は、婦人の文芸雑誌としても或る新鮮さをもっていた。当時文学志望の若い婦人たちのための雑誌であった『女子文壇』や『ムラサキ』は如何にもネオ・ロマンティック時代らしい趣味をたたえた渡辺与平や竹久夢二の插画や表紙で飾られながら、扉の写真には同時代に活動しはじめていた婦人作家や女詩人たちの肖像をのせようとせず、「日向代議士夫人の新粧」として洋装のきむ子夫人の写真をのせたり「代議士犬養毅氏令嗣及夫人」という題でフロックコートを着た良人と並んでいる洋装のマーガレットの若夫人の立姿をのせたりしている有様であった。代議士令嗣夫人という肩書ばかりで固有な女としてのその人の名は、其に不思議がないように抹殺されているところ。令嗣及夫人という身分ばかりは書き出されて、本人達の名前さえ全く消えているところ。若い婦人たちの文学志望が認められている当時の社会の一面に、どんな古い社会感情が湛えられていたかを具体的に示す例である。そういう空気の中で『青鞜』は、斬新であり、知識的であり、動的でもあった。周囲との摩擦の烈しさ、偏見、反動は、新しい女という言葉へ集注的に向けられたのであるが、大正三年、らいてうが、「独立するについて両親に」という文章を発表した頃から、『青鞜』のグループの生活と雑誌の内容とは、次第に現実的な動機を含んで変って行った。「独立するについて両親に」告げる文章は、平塚らいてうが「五分の子供と三分の女と二分の男を有っているHが、だんだんたまらなく可愛いものになって参りました」と、現在の良人である奥村博史氏との共同生活をはじめるについての宣言の文章であった。「現在行われている結婚制度に不満足である以上、そんな制度や法律に認めて貰う結婚はしたくないのです。私は、夫だの妻だのという名だけにもたまらない反感を抱く」と云い、両親が不安を抱くかもしれない子供の誕生ということについては「私は今の場合子供を造ろうとは思っていません」との断言が添えられてある。
娘を片づけるという考えのもとに行われている旧来の結婚の習俗にあきたらないで、故郷を去って当時共同生活を営んでいた『青鞜』の同人には伊藤野枝があり、思想的な根拠に立って其の実践としてそういう形態の生活をもっていた人々には『青鞜』に直接の関係はなかった大杉栄、岩野泡鳴などがあった。
嘗て『青鞜』創刊号に「元始、女性は太陽であった」という半ば神秘論に近い感想を発表した当時、らいてうは、その文章の中にも沢山女性という文字をつかって物を云っていたのに、実は、現実の社会に生活する女として、その実感を欠いていたという事実を、程経て自身心づいたということは、注目に価することであると思う。『青鞜』が第三巻に進んだ年、らいてうは初めてエレン・ケイの「恋愛と結婚」を読んだ。そして、その紹介と部分的な翻訳を発表するに際して、次のように語っている。「或る意味で自分は新しい女を以て自任しているものではあるが、実際を考えると多くの場合は自分は女だとは思っていない。(勿論男だと思っているのでないことは云う迄もない)思索の時も、執筆の時も、恋愛の時でさえも女としての意識は殆ど動いていない。只自我の意識がある丈だ」「そのせいか自分は女なのにもかかわらず十九世紀から――いや十八世紀からそうだ――喧しく云われている婦人問題も実のところいまだに自家内心の直接問題とはならずに来た」と。
中流的で当時としては自由な家庭の雰囲気の中にあった彼女の生活は、経済の面でも思想の面でも謂わば温室育ちであった。女として実感の目ざまされる現実が欠けていた。そのらいてうがエレン・ケイの論文にひきつけられて行った生きた関心の動機は、抑々《そもそも》何であったろうか。やがて三十歳に近づいていたらいてうの許を屡々訪れるようになった青年、彼女自身其人を若い燕と呼んだ愛人との交渉が、ケイの思想へも生きた脈動を感じさせたのであったと思える。
両親に宛てた形で書かれているとは云え、その実質は結婚の旧い習俗へ向って投げている昂然たる宣言とともに、らいてうは親の家を出て、巣鴨の植木屋の離れに、奥村博史との新生活を営みはじめた。ところが、従来『青鞜』の編輯事務に携っていたひとがその部署を退くことになって、『青鞜』の編輯の全事務は、その新居へうつされなければならないことになった。そして一年が経過した。
翌大正四年一月『青鞜』の巻頭に、「青鞜を野枝さんにお譲りするについて」というらいてうの言葉が現れて、人々に或る衝撃に似た感じを与えた。らいてうは、『青鞜』刊行のための経済的なよりどころを、新生活の開始とともに失ったのであった。「親の保護を離れた私には今日の食べ物を得る金があったりなかったりする位でした」そういう経済上の逼迫につれて、らいてうが、自分たちの家庭というものを考えている。その考えかたは、一つの社会的挑戦の意味をもつ雑誌発行の事務をつかさどるところとしては、全く調和しがたい本質に築かれていることも明瞭となった。「自分がじっと静かに物を考えたり、祈ったり、書いたり、恋愛したり、休息したりする『自分の住家』というものは、いつも出来るだけ外からのものに邪魔されることのないように、いつも静かに、安全に保ちたいというのが私の日頃からの願でしたから。」
結婚の習俗に抗しつつ、らいてうと博史との家庭についての感情が、全くあり来りの、おとなしい、けれども我知らず排他的になっている小市民の家庭感情から一歩も歩み出ていないことは、家庭と仕事との摩擦を、耐え難いものと感じさせるに到ったと見られる。家庭と仕事とのやりくり、そのやりくりのために、今は赤裸々な皮膚にふれて来る実生活との摩擦で疲労困憊したらいてうは、その苦痛と敗北と自身の生活態度の本質に客観的に考え究める可能を見出さず「こういう散文的な生活が只私を疲らせ、私の中の高貴なものの総てを汚し、私から光と力とを奪い去るものだ」としかみられなかった。苦痛の経験から、彼女は体験的な現実への生活力を蓄えず、又それによって思想の実質を更新させることもせずに退嬰して、「心霊上の自由」へ引こんだ。
「独立するについて両親に」という宣言の中で、「私が若い燕だの弟だのと呼んで居りましたHという私よりは五つも年下のあの若い画をかく男」と、やや下目に語られている一箇の男性が、「私は太陽である」と叫んだらいてうに、男として及ぼした作用の現実は、社会的な過去の力をもこめて決して単純なものでなかったことがわかる。それが単に個人の問題以上に深刻な性質をもっていることは、らいてうが、やがて母となるという自然な出来ごとに当ってさえ当時の卑俗な揶揄的な偏見と全面に闘わなければならなかっ
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