たにもかかわらず、そのような荒い路を経て女としての意識をさまされつつ生きなければならなかったにもかかわらず、彼女の活動と、所謂「天才の発現」とは、さまで広くない妻の限界に止まって、今日に及んでいることで考えられる。
『青鞜』をひきついだ伊藤野枝が、年齢の上でらいてうより若かったというばかりでなく、全体としての生活態度の上で、らいてうと対蹠していたことは、まことに意味ふかく考えられる。伊藤野枝が『青鞜』を引受けた心持には、同棲者であった辻潤の協力が計算されていたこともあったろう。しかし、彼女は、その時分もう子供をもっていた。若い母となった野枝が、日常経済的な困難や絶間ない妻、母としての雑用に追われながら、その間却って女、妻、母としての生活上の自覚をつよめられて行って、「社会的運動の中に自分がとび込んでも別に矛盾も苦痛もなさそうに思われました」という心持に立ったことは、今日の私たちの関心をひかずにいない点であると思う。らいてうと野枝との間のこういう相異は、唯二人の婦人の性格の相違だけのことであろうか。もとより個性的なものが大きく作用しているのではあるけれども、その個性のちがいそのもののうちに、既に新しい世代への水源が仄めき現れている感じがする。『青鞜』は従来の社員組織をやめた。「無規則、無方針、無主張、無主義」なものとして総ての婦人のために開放した。事実、テムポが速い五年の間に、発刊当時集っていた婦人たちは、其々成長し、それぞれの道を独自に歩みはじめつつあった。明治四十年に処女作「縁《えにし》」を漱石の紹介で『ホトトギス』に発表した野上彌生子は、進歩的であるが温和でややアカデミックな環境の中でホトトギス派の水彩画めいた文学の境地から次第に新現実派と呼ばれた傾向の作風に進み、文章も欧文脈をうけて、知識人らしいポーズのうちに或る溌剌さをもって自身のスタイルを定め、『中央公論』『新潮』に作品を発表して、田村俊子とは対照的な取材、人生への態度をもつ婦人作家として重きを加えていた。田村俊子の女及び作家としての生活は、既に『青鞜』から遠くはなれてひろく流れつつある。唯一のロシア文学専門家としてチェホフの翻訳で『青鞜』を豊かにしていた瀬沼夏葉は、この年春亡くなった。
 画家上野山清貢の夫人であった素木しづ子が、病弱であった肉体と心との繊細さを美しく感覚に映した短篇をもってあらわれたのは、この時代の前後であったろう。婦人の文学活動の展開される場面も数多くなり『新潮』『文章世界』などのほかに、『スバル』もあり『番紅花』『詩歌』『朱欒』等のほか、片山広子のアイルランド劇研究の載った『心の花』もあるという盛観であった。
 伊藤野枝が引きついで満一年後の大正五年の新年、『青鞜』はその経営の困難をまざまざと語って表紙には何の絵もなく発刊された。寄稿の中に吉屋信子の稚拙な詩があるのも面白く、更に注意をひかれることは、此号に初めて、山川(青山)菊栄が執筆していることである。津田英学塾を卒業してのち、社会問題の研究に進んでいた彼女は、当時まだ山川均との結婚前で、『番紅花』にカアペンタアの翻訳などをのせたりもしている。『青鞜』に彼女が寄稿したのは、伊藤野枝の廃娼運動否定論に対する反駁であった。
 当時、歌人として地位を確立していた与謝野晶子が、今日からみるとその人のテムペラメントにふさわしいとも思えない堅い論文調で、社会時評を盛に執筆していた。それまで『青鞜』の人々が、刻々の時にふれた時評をしそうであってそれをしなかったことは、彼女たちの社会的な成長の程度をも反映して興味ある事実であるが、晶子が選挙運動に婦人の活動することにふれて書いた文章に対し伊藤野枝が、そういう有閑婦人の活動を無意味なものと評価しつつ、それと同類の暇つぶし、無益な努力として、廃娼運動をも否定的に評した。野枝が「男子本然の要求と長い歴史による」もので娼妓は存在するだけの理由をもっていると云ったに対して、山川(青山)菊栄は、社会問題としての廃娼運動の必要を力説したものであった。「男子の先天性というよりは不自然な社会制度」から生れているものとして、山川菊栄は、統計をあげ、社会科学の問題としての立場を明かにしつつ傍ら社会問題に対する野枝の気分まかせの投げやり、根気弱さを批判した。
 伊藤野枝は次第にそれへの部分的な共鳴と反撥、弁明|交々《こもごも》の感想を発表したのであったが、両者は完全な一致を互の間に見出さず、野枝が大杉栄の新著『社会的個人主義』についての好意ある紹介をしていることは、単に意味ふかい偶然であったとだけ云うべきであろうか。
 欧州大戦三年目の日本では、吉野作造がデモクラシーを唱え一般に強い反響をよびおこしていたが、『新社会』による堺、高畠、山川均等と『近代思想』によるアナーキスト大杉栄との間に、思想的対立の兆したのは既にその前年のことであった。
『青鞜』が遂に発刊不能になったことは、同時に伊藤野枝と辻潤との生活破綻を語り、野枝は子供をつれて家を出た。大杉栄をめぐって堀保子、神近市子、伊藤野枝の苦しい渦巻が生じた。『青鞜』が嘗て婦人問題について諸家の回答を求めたとき、堀保子は皮肉に満ちた語調で次のように答えている。
「男の申しますには、若い男と女とが相愛のなかとなれば、斯うして別々に住っていて、別々の独立の生活をして、猶もし他にも相愛の男か女があれば、それらの人とも遠慮なく恋し合って、そしてもし愛がさめれば、いつでもその関係を離れるという風になれば理想的なんだそうでございます。けれども猶男の申しますには、斯ういう理想は今日の社会制度、今日の経済制度の下では、僅の例外者をのぞいては、迚も出来ないそうでございます。其故私も安心して居ります」と答えた。
 その記事の現れる僅か数ヵ月前、神近市子は『青鞜』に「手紙の一つ」という感想をのせたことがあった。彼女はその手紙の中で、若く結婚しようとする同性の友に警告して、「さめよ」「自覚せよ」「新しい生命を求めよ」と叫ぶ声は私共を救う人の声でなく、私共を呪う人の声ですね。少くとも嘲る声としかきこえませぬ。と男が女に求める所謂新しさの底に、本質には旧い男の我ままや放肆のかくされていることを痛切に訴えている。「男は悪魔です。獣です、」とそこには素朴な憤りの迸った表現さえあった。
 社会の動きは、今これらの婦人たちを一つの渦の中に巻きこんだ。そして、この矛盾紛糾は、神近市子の最も深い犠牲において爆発し、数年の間彼女を社会から遮断した生活におく結果となって終結したのであった。
 自叙伝のなかに、大杉栄は、自分の喉に刃の当てられた夜までのいきさつを飾りなく語っている。
 神近市子の性格の明暗、その苦悩、三人の婦人達と自分との間の感情の流れも、比較的公平に一流の流暢さで書いている。けれども彼自身のアナーキストとしての理論やその実践に含まれていた破綻の因子については、追究の筆をすすめていない、雑文家の才筆で現象を語っているだけで、「マア理窟はどうでもいいとして」と云って過ぎている。当時に小さくない震撼と問題とを社会に与えた事件として客観的な扱いをしていない点は、そのことにも彼の立っていた思想の特質の一端が語られているとも見られる。
 このようにして、『青鞜』が明治の末から大正の初めにかけて持った歴史の役割は遂に終った。時代の波頭にもたげられておこり、又時代の波頭にうたれて砕け散ったこのグループの消長は、日本の中流女性の前進性の絵巻として、広汎であったその影響とともに、その終末の形においても、私たちに多くの学ぶべき様相を示したのであった。

     五、分流
         (大正前期)

 明治四十二年の二月ごろ、『女子文壇』という当時の女性のための文芸雑誌は、夏目漱石の「作家としての女子」という談話をのせている。短いものだけれども、その内容を今日の文学の現実や生活の感情に映してみるとなかなか面白いし、歴史的な意味もある。
「男女の性《セックス》は自然に分賦せられているものではあるけれども、教育は男女の別に拘らず同一の知識を与える。」そう冒頭して、漱石は更に其が職業に用いらるる時は、男女とも異るところなく生活を営んで行くのであって、その点では男女のテンペラメントが次第に同化されて来る。琴などでも男の盲人が習った琴も、令嬢が教えられた琴も、変りなく同様の音曲節奏となって現れる、と解釈している。さて、婦人にして小説を職業もしくは道楽としている人があるが「女だから男子と同様のものを書くべきもので無いとは云い得られないのは勿論である。女であっても、其得意とする衣裳や髪容の細かい注意以外に或は男子の心理状態の解剖を為し得べき能力あるは、猶お男子にして婦人の心理解剖を為すに等しいものであろう。要は作品の問題で、畢竟佳い作品さえ出来ればそれで宜いのである。外国ではエリオット女史の如き、随分男子以上のところ迄突き進んでいる者もある。故に其作品から見て、成程遉がは女らしい筆致が見えているとか何とか云い得られようけれ共、其を逆に、其女らしいところが無いから其小説は偽だとか何とかいう批評は加え得られないのである。
 併し又、一方から作品と作者を分けて、どうも恁ういう甚しい事を書く様な女は嫁にする事は困ると云うのは又別で、作品の上には云い得られないが、作者の上には云っても差支は無い。
 けれ共又、他方から考うれば作に現れた芸術上の我と、然らざる平常の我とは別物であって、作家は二重人格《ダブルパーソナリティー》であるべきものだと云った考えを持っているかも知れない。是も亦不当でないと思うのであります。
 女子にして小説に筆を染むる者のあるのは、勿論近代自意識に伴う競争心から来たので、多くは模倣でありましょう――尤も男子にだって其は免れないが――要するにまだ/\個性を発揮したものは無いだろうと思われる。」と結んでいるのである。
 或る意味では当時の知識人の常識の代表者のようでもあった漱石が、その進歩性として、学問や職業の部面では男女の性別や境遇の相異が消えるべきものだとしている点、所謂女らしさを要求する俗見に反対している点などでは、明らかに女の社会的な活動の可能をより広い方向において受け入れ認めようとしているのである。けれども、同時にいかにも当時の社会感情らしい矛盾もあって、観念の上では素朴に男女同権を承認しつつ、実際に処して、嫁、又は妻という位置で女を見る場合には躊躇なく旧套の目やすへ置きかえている態度は面白い。
 女が小説をかくからと云って、その観察は何《いず》れも衣裳や髪容の描写にとどまらず題材としては男と同じものを扱ってよいと云うことにつづいて、すぐ男子の心理状態の解剖をいうところへ飛躍して云われているところも、男女の対立の範囲で婦人の問題が観られていた当時らしい考えかただと思える。
 また、作品の創られてゆく生々しい内的過程から推して、芸術の世界の現実は、果して男の盲人の弾く琴と令嬢の稽古事として弾く琴とが、変りなき同様の曲節を奏でることがあり得るだろうか。漱石は、自然主義に反対して芸術の世界を、生活的世界と一応切りはなしたものの裡に認めようとしていた。その作家としての態度が、此処にもおのずから反映している。そして、学問、芸術の前には、俗世間で通用しているような形で、男女の性別はないとしているその仮定から、却って、婦人作家の生れて来る現象についても、女の止めがたい息づきによるというよりも、寧ろ近代自意識に伴う競争心をその内的な動機としてみるという、皮相な見解に陥っているところは一層興味ある点だと思う。
 漱石が女性に対して抱いていた考えかたの中には、一貫して、彼のうけた儒教的教育と西欧的教養との相剋が見られる。
 漱石は、「吾輩は猫である」などの中に、女を、ソクラテスの有名な駻馬的細君を例にして、苦い皮肉と笑とで扱っているが、「行人」を読んだものは、学者である主人公と共に、この作家が「女のスピリット」を攫もうとして、苦しい焦燥にかられていることを印象されるのである。
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