、オルゼシュコ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァは自然主義の現実理解と手法とが許す最大限の力と熱とで、幸福な富裕な女性として生い立ち結婚し母となったマルタが、どうして最後にはひとの紙入れから札を盗んで逃げるところを馬車の轍にしかれて落命しなければならなかったかという、女として社会に生きる惨苦を描破している。オルゼシュコ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァは、社会のありのままをあるがままに観察した結果として、女が母として自身の愛を完うするためにさえどれ程社会的には無力におかれているか、愛の成就のためには「今一つの成分を其に加える必要がある」という、婦人の経済的自立の必要の課題に到達して、この傑出した「マルタ」を描き出したのであった。
日本に流れ入った自然主義の思潮は、辛うじて藤村の「破戒」や長塚節の「土」を記念としてもったのであったが、婦人作家の中からは、同じような意味で社会的な道標となるような作品は一つももたらし得なかった。花袋の「蒲団」が、自己に対して挑まれた戦いとして、私小説の濫觴とみられているが、その流れに沿うて見れば水野仙子の小説は、今日に到る迄日本の婦人作家の大多数をその枠内にとらえている身辺描写と、その範囲での女としての個人的な自己検討、自己主張の戸口であるとも思われる。
明治四十年に入れば、日本にも職業婦人が出現している。今井邦子が、若い詩人山田邦子として故郷をすてて東京へ出て、婦人記者としての職業についたのも、この時代であった。神近市子が婦人通訳として自立生活に入ったのもこの頃のことであったろう。現に水野仙子は、生活のために編輯員として働く職業婦人の経験をも持っていた。それだのに、概して当時の進歩的な婦人たちの関心が、男対女という関係の見かたの範囲で、男性の横暴から婦人を解放しなければならないという方向にだけ動いたということは、ブルジョア婦人解放史として見のがせないこの時代の歴史的特色であると思う。
水野仙子にしろ、その他の婦人たちにしろ故郷の生家は其々の地方で所謂相当な生活を営む中流的な旧家が多かった。経済的にも文化的にも、娘たちを女学校へ出すだけにゆとりもあり、開化もしていたのであったろう。が、いざ女の子がそれ以上進んで文学の仕事をしたい、勉強したいと云えば、そんな若い女の熱心そのものが周囲を驚愕させるような封建性は、強い枷となって地方文化のうちに生きた威力を逞しくしている。そのような家の空気、家長的な圧迫に抗する情熱は、生活力に溢れるそれらの婦人たちを様々な形で故郷に背かせただろう。父兄の圧制は、やがて女としてめざめた眼に良人の妻への専制とつづいて周囲や我身の上に目撃されるようになったろう。周囲の現実をあるがままに見れば、女として伸びたい心の痛切な叫びは高まって、而も、封建の要素を多分にもちこした社会の構成からもたらされている非人間的な条件の本質を理解する迄には成長していなかったこれらの婦人たちが、その鬱積を男に向けて、男の専横からの女性の解放という方向に赴いたことは、その時代の、それらの婦人たちの生活の環境や教養から推して十分に肯ける。
坪内逍遙が明治四十三年に何かの講演で、はじめて、「新しい女」という表現をしたということが、神崎清氏の「現代女性年表」に記されている。しかしながら、祖母たちの中にスタール夫人もジョルジュ・サンドも持っていない日本の「新しい女」というものは、その内容に、何と複雑な旧さと新しさの混淆を持っていただろう。自身の知らない歴史的な混迷がそこにあった。
新しい女という造語の動機をなしたのは、明治四十一年、ダヌンツィオの「死の勝利」をもじって「死の勝利」事件と云われ、当時の耳目を聳動させた文学士二十五歳の森田草平と女子大学生平塚明子との塩原の雪の彷徨事件であった。「教育界の胆を奪い、芸術界の人士をして之あるかなと膝をうたしめた」というような文章が当時の文芸雑誌に見えるのも、今日から見れば時代の色があらわれていて興味深い。事柄の核心は、恋愛と、それに絡む若い文学好みの男女の自我の観念上の格闘であるが、その時代の空気の中では、二十歳の明子が「われは決して恋のため人のために死すものに非ず。自己を貫かんがためなり。自己の体系を全うせむがためなり。孤独の旅路なり」という遺書をかいたということさえ、従来の女にあきたらず、しかもあきたりない女を生む社会の条件が自分にも作用していることに理解の到らなかった「人士」に対して一つの衝動として受けられたのであったろう。
森田草平は小説「煤煙」の中で、そのいきさつを描いた。当時の若い知識人の生活感情の混乱と矛盾とがこの「煤煙」によく窺われる。旧来の男の身勝手な生きかたと自然主義的現実曝露の気分との混淆で生きる主人公が、禅学趣味をもったり、外国小説をよんだり、自然発生の若い女らしいポーズを知的らしきもので粉飾する明子の珍しさに魅せられて、その交渉の面では受動におかれた姿が描かれている。
平塚明子自身は、その経験を自分のものとして芸術化する力は持たなかった。そのような行動に対して、よかれあしかれ周囲にまきおこった声々に対する抗議と宣言として『青鞜』が発刊されることになったのであった。
「青鞜」の名は、十八世紀の英国でメリー・ウォルストーン・クラフト夫人が婦人の社会的な向上は婦人の努力で解決されなければならないという主旨でおこした青鞜下《ブルー・ストッキングス》の運動に、その源を発している。
日本においての『青鞜』が発刊されたのは明治も終りに近い四十四年(一九一一)であった。
「新しい女」の代表と目されていた平塚雷鳥を筆頭として、物集和子その他三人ばかりの婦人たちが発起人となって、青鞜社が結ばれた。賛助員としては、劇作家として活動していた長谷川時雨、小説家として立っている岡田八千代、小金井喜美子、森しげ子、国木田治子、歌人の与謝野晶子、そして社員には、当時の新進であった野上彌生子、田村俊子、水野仙子をはじめ文筆的な活動をする十二人ほどの婦人の顔ぶれが網羅された。これはおそらくその頃の進歩的な婦人たち全員の勢ぞろいとも云うべき盛観であったろうと思う。
青鞜社概則第一条に「本社は女流文学の発達を計り、各自天賦の特性を発揮せしめ他日女流の天才を生まむことを目的とす」とかかげられていて、それがひろい意味の文学団体であったということも各種各様の婦人文芸家をそこに集めた重大な理由であったと見られる。けれども、文学的閲歴の古い、生活環境の温和な上流夫人たちである小金井喜美子や森しげ子が、「新しい女」の声におびえず、若い同性のために賛助員となっているということも、時代の姿として目をひかれる。女性の活溌な自由の社会生活への欲求は、それほど一般的で、その欲求では当時日本の女が年齢や境遇の相違もさながら忘れたかのようであった様子が髣髴する。
創刊号の巻頭には、興味ふかい時代の象徴をもって、次のような与謝野晶子の「そゞろごと」という詩がのった。
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山の動く日来る。
かく云へども人われを信ぜじ(中略)
すべて眠りし女《をなご》今ぞ目醒めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや
われは女《をなご》ぞ
一人称のみにて物書かばや
われは。われは。
われは愛づ。新しき薄手の玻璃の鉢を。
水もこれに湛ふれば涙と流れ
花もこれに投げ入るれば火とぞ燃ゆる
愁ふるは、若し粗忽なる男の手に砕け去らば。――
素焼の土器より更に脆く、かよわく。
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続いてらいてうの有名な「元始、女性は太陽であった」という感想文がある。
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されてしまった我が太陽を今や取戻さねばならぬ。『隠れたる太陽を、潜める天才を発現せよ』こは私共の内に向っての不断の叫声、押えがたく消しがたき渇望、一切の雑多なる部分的本能の統一せられたる最終の全人格的の唯一本能である。その叫声、その渇望、その最終本能こそ、熱烈な精神集注とはなるのだ。そしてその極まる所、そこに天才の高き王座は輝く。」
散文詩のような調子で書かれているこの感想は、女性が奮い立って自身の天才の目醒めを翹望する熱烈な言葉に鳴り響いているのである。同時に、今日の歴史の光に照して見れば、らいてうがこのように高い調子で唱えている婦人の天才の発現の現実の過程というものが、どこまでも抽象的で、主観的な個人の精神集注の裡に求められている点に、意外な感じを抱かせられる。らいてうの理解によれば、天才への道は、一人一人の心の中の熱誠の道とされた。「熱誠とは祈祷力である。意志の力である。禅定力である。云いかえれば精神集注力である。」「私は精神集注の只中に天才を求めようと思う。天才とは神秘そのものである。真正の人である。天才とは男性にあらず、女性にあらず。」「私共女性も亦一人のこらず潜める天才だ。」「潜める天才に就て疑いを抱く人はよもやあるまい。今日の精神科学でさえこれを実証しているではないか」と、らいてうは「アントン・メスメル氏に起源を発した催眠術」を例として「いかに繊弱い女性でも」催眠術にかかったときや非常の場合は日頃予想し得なかった活躍を示す。天才の発揮もそれと同じ状態の下に行われるというのであった。「私の希う真の自由解放とは何だろう。我れ我を游離する時、潜める天才は発現する。」そして「自然主義の徒」というような表現で、その思潮の浅薄さが反撥されている。同時に、らいてうは婦人解放のための運動の歴史に対しても一つのはっきりした反撥を示している。「女性の自由解放という声は随分久しい以前から私共の身辺にざわついている。然しそれが何だろう」「女性をしてたゞ外界の圧迫や拘束から脱せしめ、所謂高等教育を授け、ひろく一般の職業につかせ、参政権をも与え、家庭という小天地から又は親といい夫という保護者の手から離れて、所謂独立の生活をさせたからとて、それが何で私共女性の自由解放であろう。」そういうものは総て「方便である。手段である」「潜める天才偉大なる潜在能力」を発揮させる妨害となるものとして、取り除かなければならないのは「我そのもので」あるというのがらいてうの結論なのであった。
これらの論調は、今日の私たちに、おのずから高山樗牛のロマンティシズムを思いおこさせずにはいない。
樗牛は、『青鞜』が現れる丁度十年前「美的生活を論ず」という論文で、独特華麗なロマンティックな文筆的雄弁をふるいながら、人を服従させる立場に立って、三十年代の日本の市民的自覚の当然のみのりとして、権利と義務という観念が云われはじめたことに反対した。「人生の帰趨は貸借の外に超脱するを如何せむ。」「嗚呼憫むべきは飢ゑたる人に非ずして麺麭の外に糧なき人のみ。人性本然の要求の満足せらるゝところ、其処には乞食の生活にも帝王の羨むべき楽地ありて存在する也」「貧しきものよ、憂ふる勿れ。望を失へるものよ、悲しむ勿れ、王国は常に爾の胸に在り」と高唱した。そして、彼は田岡嶺雲や金子筑水が日清戦争後の日本に社会小説というものが発生した必然を肯定したのに対しても反対した。樗牛の意見では、社会が進化してゆく道程で貧富が分れその懸隔が日に日に大きくなってゆくのは当然であるとされた。社会小説は「分に応じた服従を示すことをもつて幸福を受けさせるべき」であり「貧弱者に教ふるに服従を以てせ」ざることを非難したのであった。
旧来女性は社会的貧弱者であるとされているのだから、教うるに服従をもってせよ、と云ったら、雷鳥は憤激したであろう。しかしながら、ニイチェの超人を説いたり、「吾人は須く現代を超越せざるべからず」と云ったりした樗牛のロマンティシズムと、「元始、女性は太陽であった」という文中の思想の本質とは、歴史的に観察すれば背中合わせの双生児とも云うべきものであった。
樗牛のロマンティシズムは三十年の日本に咲きかえった二十年代のロマンティシズムの惨
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