と思う。
 山田美妙との恋愛の紛糾から、習作を未だいくらも脱しない小説をかいていた田沢稲舟が自殺したのは、一葉の死と同じ二十九年の出来事であった。
 一葉の死の直後は、日本の文学全体に亙る変動期に入るとともに婦人の文学的活動にも一種の低迷というべき沈滞が生じた。三十四年に与謝野晶子の「みだれ髪」が出て、『明星』のロマンティシズムが婦人の間に或る熱気を喚びさますまで、折々作品を発表した花圃、北田薄氷などとともに、殆ど毎月一篇の短篇を淋しそうに、おとなしく執筆していたのが大塚楠緒子である。
 日本で最初の美学専攻者であった大塚保治博士の妻として楠緒子が明治四十三年その生涯を終ったとき、漱石は「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」という句をおくって弔った。明治三十八年作の「お百度詣」などは当時の戦争に反対しそれを悲しむ女の心を語った歴史的な性質をさえもっているものだが、境遇が遂に文学を余技の範囲から押し出さず、従って作品の全体がまとめられた文集など、今日では図書館にさえのこっていないことは、女の文学上の努力の果てとして哀愁を覚えさせる。
 さて、このようにして『文学界』のロマンティシズムは、その花
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